関根


愛国心の源流

冷徹なる同盟感を持とう

システムはすべて複雑系

原発から生まれる放射性廃棄物

 新島襄から学ぶべき教育精神





   落合

零戦に寄せる思い







   大幡

ドミトリー・ドンスコイ

戦艦ポチョムキンと女帝エカテリーナ

B25ミッチェルとドウリットルの東京初空襲
 目撃者は語る

映画 フューリーによせて 1  映画のうそ

映画 フューリーによせて 2 極大射程

ミッドウエイ トリビア

ミッドウエイ 2

タンネンベルク殲滅戦と虚像ヒンデンブルグ

映画 ベルファスト71を見て民族浄化・過激派テロ行為の祖

B-29誕生物語とB-15,B17

B-29・勤労動員・伝単

B-29 東京焼尽3月10日 内田百聞
































































































































































































































































































































































































































































   関根


愛国心の源流

冷徹なる同盟感を持とう

システムはすべて複雑系

原発から生まれる放射性廃棄物

 新島襄から学ぶべき教育精神





   落合

零戦に寄せる思い







   大幡

ドミトリー・ドンスコイ

戦艦ポチョムキンと女帝エカテリーナ

B25ミッチェルとドウリットルの東京初空襲
 目撃者は語る

映画 フューリーによせて 1  映画のうそ

映画 フューリーによせて 2 極大射程

ミッドウエイ トリビア

ミッドウエイ 2

タンネンベルク殲滅戦と虚像ヒンデンブルグ

映画 ベルファスト71を見て民族浄化・過激派テロ行為の祖

B-29誕生物語とB-15,B17

B-29・勤労動員・伝単

B-29 東京焼尽3月10日 内田百聞



















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































   関根


愛国心の源流

冷徹なる同盟感を持とう

システムはすべて複雑系

原発から生まれる放射性廃棄物

 新島襄から学ぶべき教育精神





   落合

零戦に寄せる思い







   大幡

ドミトリー・ドンスコイ

戦艦ポチョムキンと女帝エカテリーナ

B25ミッチェルとドウリットルの東京初空襲
 目撃者は語る

映画 フューリーによせて 1  映画のうそ

映画 フューリーによせて 2 極大射程

ミッドウエイ トリビア

ミッドウエイ 2

タンネンベルク殲滅戦と虚像ヒンデンブルグ

映画 ベルファスト71を見て民族浄化・過激派テロ行為の祖

B-29誕生物語とB-15,B17

B-29・勤労動員・伝単

B-29 東京焼尽3月10日 内田百聞












































































































































































































































































































































































































































































































































































































   関根


愛国心の源流

冷徹なる同盟感を持とう

システムはすべて複雑系

原発から生まれる放射性廃棄物

 新島襄から学ぶべき教育精神





   落合

零戦に寄せる思い







   大幡

ドミトリー・ドンスコイ

戦艦ポチョムキンと女帝エカテリーナ

B25ミッチェルとドウリットルの東京初空襲
 目撃者は語る

映画 フューリーによせて 1  映画のうそ

映画 フューリーによせて 2 極大射程

ミッドウエイ トリビア

ミッドウエイ 2

タンネンベルク殲滅戦と虚像ヒンデンブルグ

映画 ベルファスト71を見て民族浄化・過激派テロ行為の祖

B-29誕生物語とB-15,B17

B-29・勤労動員・伝単

B-29 東京焼尽3月10日 内田百聞





















































































































































































































































新3P




仲間と3人で、選挙区外の代議士を応援し、ポステイングのボランテイアを月2回で17年以上やってきました。残念なことに2013年6月にその仲間の一人が先に旅立ちました。

 大幡・高岸・服部のメンバーより大幡・関根・服部の新メンバーで、もう老年ですが続けてやっていきたいと思います。このページはメンバーのコーナーです。

 かってメンバーでまとめて代議士に提案いたしました構想です。

   緊急援助隊拡大構想       








    

    愛国心の源流     
                   関根

19世紀の後半に白人の西洋帝国主義が壮絶を極めるなか、
アジア・アフリカの中で私たち日本だけが西洋の帝国主義の
脅威を跳ね返し、忽ちの内に近代国家を築くことに成功しまし
た。白人が覇権を握っている世界の中で、日本は有色人種と
してただ一国だけI等国になることが出末ました。
 なぜこのようなことができたのか。それは国民が旺盛な愛国
心に溢れていたからです。即ち、一族よりも公を大切にした
からで、儒教の本場中国で最も大功な価値は親孝行の孝で、
今でも公より一族を大切にする。中国文化と日本の文化の大き
な違いです。
 日本は万世一系の天皇を戴いて、今日まで末ました。対して
中国では易姓革命*といって王朝が頻繁に交代しましたが、
日本では天皇を中心にして国民が団結をしてきました。
 これに対して、中国やあるいは朝鮮では、王朝と民衆は常に
対立関係にあり、どの王朝も贅沢を極め、民衆から収奪、搾取
することを練り返してきました。
 今私たちは近代以降、3回目の国難に見舞われています。
幕末から明治にかけて1回目の国難でした。2回目の国難が先
の大東亜戦争での敗戦でしたが、国民はうちひしがれることな
く立ち上がってきたと実感しています。
 冬は必ず春となる、より良い国を目指して平成の龍馬が出現
する夢を持ちたいものです。
                  (2010平12月)






    冷徹なる同盟感を持とう

                        関根
  

 日米関係を見ると、ペリー来航以来、日清・日露の戦争までは比較的良好な関係が続いた。これがいつからおかしくなったかといえば、日露戦争ではないか。日本は日英同盟を結びロシアと戦った。ルーズベルト米大統領は背後で応援するのですが、ポーツマス条約締結時になると、彼の態度はおかしくなるのです。
 彼には日本は危ないという警戒心が芽生えたのです。それから満州というマーケットを巡って日本と米国が火花を散らし始める。日米関係がおかしくなる一つ目の出来事です。
 そしてもう一つ、移民問題です。満州の市場を巡る問題と人種的偏見に対する反感、この二つが日露戦争の後に急激に日米間に登場してきたのではないかと思います。
 なぜ英国が同盟を結んだか。極東でロシアが南下し日本と衝突、日本が負けたら上海周辺の英国の権益は時間の問題で潰されてしまう、大変だ、とむしろ英国の方が日本と手を組まざるを得なかったのではないか。
 コインは一方向からだけ研究しても全然ダメで両方から光を浴びせる必要がある。特に
国際関係で同盟とは、いわば政略結婚であって両方にプラスがあるから締結するものです。
そして 日英同盟を結び日本は日露戦争に勝利しました。
 第一次世界大戦が起こると、日本に参戦を当初求めていた英国が、途中から消極的になってしまう。それは米国から「日本を参戦させるな」との圧力を受けているのです。
 第一次世界大戦が終わり、軍拡を抑えようという名目でワシントン会議が開かれ、ここで日英同盟が廃棄される。英国との関係が切れ、米国は日本に敵対し、中国を支援する。
 日本対英米中の対立の構図に静かに転換していき、その延長線上に敗戦の悲劇を我々は味わったのだと私は思います。
 今の国際関係のなかで、日本はどうしたらいいか。危機感が日本にない。米国が今言っているのは、台頭する中国を日本はどうするんだと聞いても日本人はピンと来ないということです。今でも名目で中国の軍事費は日本の防衛費の3倍から4倍、今世紀末には30倍にもなる。どうするんだ。それを誰に聞いても日本人は、中国は嫌だというだけで、具体的にどうするかわからない。
 できれば日本が自己完結的な大軍備を用意したい。ところがこれはできない。では米国につくのか、中国につくのか、理想は自主独立で米国との対等同盟を結ぶことだが、大変長い期間がかかる。今の選択は日米同盟の強化しかない。中国とは即対決とは言わないが、いざという時には対決の覚悟を決めていないとどうにもならなくなる。
 アーミテ―ジ報告で10年前、日本に憲法改正して下さいと言ったにもかかわらず、日本では1ミリも動いてない。ならば、強い国との間で決めてしまおうという国際秩序になりかねない。昨年9月の民主党代表選では外交・軍事について一言も言わなかった。
 
 政治は劣化しましたが、私は、必ずしも日本の将来に悲観はしていません。
日本人は危機を悟った時は必ず団結してきました。歴史がそう語っています。
 今は国がどうなっても次の選挙に俺は受かりたいと思っている政治家を選ぶ票を持っているのは我々です。希望はまだまだあります。






   

   システムはすべて複雑系

                                    関根 

  
 2008年9月のリーマン・ショックは、金融システムの崩壊と言われていますが、そもそもシステムというものは極めて複雑でわかっていないことばかりなのです。
 システムが複雑、というのは言いかえれば「ものごとは、ああすればこうなる、というような簡単なつくりになっていない」ということです。
 近年、「複雑系」と表現されているのも、簡単にいえばこういうことなのです。
ご存知の通り、生物はもっとも複雑なシステムですが、そのことはほとんど理解されていないように思います。システムの複雑さをよく示しているのが、当時、テレビや本で話題になった「奇跡のリンゴ」です。木村秋則さんという青森県の生産者が作るこのリンゴは、農薬も肥料も一切、使わないのに、十分な質と量を誇っています。
 これまでリンゴを育てるにあたっては、さまざまな肥料や農薬といった科学技術が開発されてきました。最新の技術を駆使したほうが、一般的には、良いリンゴがたくさん採れるとされてきました。私もそう思っていました。
 ところが、意外にも木村さんのリンゴが示したのは、「結局雑草は生やし放題、肥料をやらなくても、立派にリンゴはできる」ということでした。
 ごく短期的にみれば、肥料や農薬を駆使したほうが収穫が上がるかも知れませんが、長い目でみれば、大して変わらないといいます。
 もちろん、自然のままにしたほうが土地の力は失われないことであり、化学肥料や農薬に手間と金、労力がかかるだけ損だということです。
 「害虫がいるから排除しよう」「樹が元気になる栄養を増やそう」、そうすれば収穫が増えるだろう、というのは「ああすればこうなる」式の考え方です。実際に試験管の中で実験しているぶんには、それは正解なのです。
 ところが、実際のシステム、この場合は生態系はそんな単純なものではなかった。
その複雑さをよく理解していなかったから、あれこれ人為的に手をかけたほうがいい、という誤解をしてしまったのです。
 つまり、「部分的な正解は全体の正解にならない」というのはシステム論では当然の原則になっているのです。
 経済政策でも「こうすれば絶対こうなる」というような正解はないはずです。
 もちろん、景気対策、恐慌回避のために何兆円もつぎ込むことが絶対に無駄だというつもりはありません。どうなるか分からない以上、やってみるしかないという面はあるわけで、やってみて駄目ならば元に戻せばいいのです。
 大事なのは「駄目ならば戻す」ことができる範囲でやることです。経済や政治というの
はしょせんは人間が作ったものだから、戻せます。
 一方で自然が相手だとそうはいきません。元に戻せないようなことをするのは自然への冒涜であり、それは許されないことだと思います。

        2011年10月






    原発から生まれる放射性廃棄物

                  関根

  
未来の地球の安全を問いかけるドキュメンタリー映画「100、000年後の安全」が2011.3.11東日本大震災以降、同年4月から緊急公開されました。
放射性廃棄物は、たとえ事故が起こらなくても、毎日世界中の原子力発電所から大量に発生し、暫定的な集積所にどんどん貯まっています。
 世界には少なくとも25万トン以上の高レベル放射性廃棄物が既に存在し、北欧フィンランド以外、最終処分場は決まっていないという実態があります。
使用済み核燃料に含まれるプルトニウムの半減期は2万5千年。更に生物にとって安全なレベルまで放射能が下がるにはおよそ10万年かかるといわれています。
危険な放射性廃棄物を10万年間、人間が管理することは可能なのか?
 映画は、北欧フィンランドで建設されている世界初の高レベル放射性廃棄物最終処分場を描き、私たちに核のゴミ問題を問いかけています。
 一方、東京電力・福島第一の原発事故後、日本では日増しに高まる「脱原発」の世論。
原子力発電所からでる使用済の核燃料をリサイクルし、半永久的に使い通す、という国が策定した「核燃料サイクル」に従えば、核燃料再処理施設が集まる青森県・六ケ所村は、「夢のエネルギー」論を担保する、眼に見える「実態」に他ならなかった。
もし、青森県・六ヶ所村という「実態」がなければ世界有数の地震国に、次々と54基もの原子炉を建てることもかなわなかったはずです。
 しかしながら、東日本大震災による原発の大惨事を受け、2016年の完成を目指していたウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料工場の工事が止まり、念願の稼働を目前にしていた再処理工場は、最終テストの目処が立っていない。
 因みに、再処理工場の
施設群を運営するのが1992年に誕生した「日本原燃」。東京電力を筆頭に関西電力などがつくる業界団体「電気事業連合会(電事連)」が出資者です。
尚、再処理施設は、あくまでも一時保管場所で最終処分施設ではありません。日本のみならず多くの原発推進国でも最終処分施設は目処が立たないままなのです。俗に言う原発が「トイレのないマンション」と揶揄されるのはこのためである。
 国内で原発が稼働するかぎり、青森県・六ヶ所村は永続的な繁栄を約束されたわけで、日増しに高まる「脱原発」の世論、原発が止まれば再処理施設も自ずと不要になる。
着工から20年、トラブルが度重なって、1997年の完成予定はとうに過ぎている。先行して、各原発から受け入れた使用済核燃料は再処理できぬまま、すでに中間貯蔵施設の9割のスペースを埋め、もう受け入れの余裕はなかったようです。
 現在も建設中で、未完成の再処理施設は、足踏み状態がつづき、費用も計画時の3倍近くまでに膨れ上がっています。同時に使用済核燃料の最終処分場受け入れ先の問題があります。前述のフィンランドでは、高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場の建設を決定しています。翻って考えてみるに日本はどうするのか注視したい。


                   (2012年3月)

 





   新島襄から学ぶべき教育精神

                      関根
  

新島 襄から学ぶべき教育精神
                           上尾市 関根  彰
 最近、日本海(竹島)、東シナ海(尖閣諸島)が騒がしい。自国の利益を最大限に主張し、相手国のことなど考慮しない、あたかも帝国主義がよみがえっているようです。
 一般に帝国主義国は、相手国が反発し、国際社会からもひんしゅくを買って、結果として不利な状況が想定される場合だけ妥協し、国際協調に転じる。明治時代の日本人はこのような国際政治のゲームのルールを理解したうえで適切な対応をしたので、日本は欧米列強の植民地になる悲劇を免れました。
 この経験から学ぶことが21世紀に日本国家と日本人が生き残るために必要と思います。
さて、真の国際人であり、かつ真の愛国者をつくる教育という観点で、同志社大学を創設した新島襄から学ぶべきことが多い。新島は、日本国家を強化するためには何よりも教育が重要と考え、政府も教育の重要性を認め、学校制度を整えました。
 しかし、新島はそこに根本的な欠陥があると考えました。それは、知的、物質的な成長を促すものではあるが、道徳的な成長を促すことはないと。すべての東洋の国々は殆んどの場合自由とキリスト教道徳を欠いているため、文明を急速に発達させることができない。
 ヨーロッパ文明を誕生させたのは自由の精神と、学術の発達と、キリスト教道徳だったのです。新島は、和魂洋才では、近代文明に内在する論理をとらえることができないと考えたのだろう。
 技術にはそれを無意識のうちに支える思想があります。洋才は洋魂と不可分の関係にあり、和魂洋才というスローガンは木に竹を接ぐようなもので、成功しない。
 それだから、洋魂にとって不可欠の要素であるキリスト教を理解する人材を育成することが日本国家のためになると考えたのでしょう。
 そして、新島は関西にキリスト教主義に基づく同志社大学を創設する計画を立てました。
ここで重要なのは、教育を通じたキリスト教の拡張を考えなかったことで、欧米列強がキリスト教を道具に植民地支配の拡大を目論んでいることを自覚していたようです。   それだから、外国のミッション(宣教団)に依存しない日本の自治教会を組織しました。
 ヨーロッパの総合大学には神学部が必ずある。その例にならい、新島は大学に宗教兼哲学部をつくり、<弱きを憐れみ、暴を制し、曲がれるを矯(た)め、正しきを賛(たす)け>という価値観をもつ人材を育成することができると考えました。
 良心を欠き、知識や技術だけに長けた人材は、国家にとって禍をもたらすと新島は考え、<教育とは人の能力を発達せしむるのみに止まらず、総ての能力を円満に発達せしむることを期せざるべからず。いかに学術技芸に長じたりとも、その人物にして、薄志弱行の人たらば、決して一国の命運を負担すべき人物と云うべからず。もし教育の主義にしてその正鴣(せいこく)を誤り、一国の青年を導いて、偏僻(へんぺき)の模型中に入れ、偏僻の人物を要請するがごとき事あらば、これ実に教育は一国を禍いする者と謂(い)わざるべからず>と警鐘を鳴らしました。
 戦前の日本の教育者は、新島と同じ認識をもっていました。それだから、旧制高校、帝国大学、私立大学のいずれにおいても教養を重視したのです。
 現下の日本では、偏差値秀才型の官僚が、恐らく無自覚のうちに日本の国家と社会を内側から壊していると思われる。それはこの種のエリートのもつ知識が「偏僻の模型中」のものであり、また、偏差値は高くても「薄志弱行」なので、リーダーシップや決断力を発揮できないからであります。
 明治維新が戊辰戦争の「勝ち組」による外面的、制度的な近代化に終ったのに対し、新島は「負け組」から多くの輩出したプロテスタント教徒による精神的な近代化、いうならば「第二の維新」を目指そうとしたと思われます。新自由主義的な競争世界における「負け組」のエネルギーを引き出すような、平成維新についてのヒントを学ぶことができるのではないかと思います。

                  (2012年11月)




  















    ドミトリー・ドンスコイ   

       軍国少年の海と空のものがたり その1       大幡

  

     


 ”海と空”は昭和7年創刊の、文字通り艦船と航空機を主題とするミリタリー誌で、当時、満州事変以降風雲急を告げ、シナ事変を経て第2次大戦に突入する時期に可成りレベルも高く,成年層に支持された雑誌である。

 ドミトリー・ドンスコイはバルチック艦隊に編入された装甲巡洋艦であり、その艦名の由来は、1380年クリコボの戦いで始めてタタール軍を破って、ロシア史上の一大英雄として讃えられるドミトリー・ドンスコイ(モスクワ大公)である。

 さて、本題は”海と空”誌上に紹介された日本海海戦の一挿話であり、所は、バルチック艦隊をむかえ撃とうと、鎮海湾にたむろす一艦の艦内である。
 「敵を知り己を知らば百戦あやうからず」の教えがあるが、これから立ち向かうロシア艦隊のそれぞれを認識するために、個々の艦形を示すシルエットをかかげて,之は何艦かと水兵たちに問うていた。
 「アリョール」「ボロジノ」辺りはともかく、「オスラービア」「シーソヴェリスキー」「ドミトリー。ドンスコイ」ともなると、当時の水兵レベルにとっては,舌をかみそうな上、憶えにくい名前である。そこで、語呂の似た日本語に置き換えることにして「ドミトリー・ドンスコイ」を「ゴミ取りゴン助」とした。
 その他にそれぞれふさわしいあだ名を付けたことになっているが、資料を紛失した今は、「ゴン助」以外は全く憶がない。話の趣は、戦いが始まりそれぞれのあだ名が、いみじくも、その艦のなりゆきを暗示したことである。
 「ゴン助」は沈没する僚艦の水兵をひろい集め、最後に蔚山沖で、村上艦隊に捕捉され、「ニコライ1世」「アリヨール」「アブラクシン」「セニャーウイン」等と共に、28日午後10時に降伏したと記憶していたが、 この辺りを確認する為一誌をひもとくと、「ドミトリー・ドンスコイ」は28日夜半沈没とある。エッ!集めたゴミ共々かつ乗組員も一諸に、あわれなこと、助けたのは無駄だったのかと大きな疑問が生じた。
 そこで今回、いろいろと関係書を拾い読みすると、次々に「どうしてそうなるの」「そんなことないよ」と思う事柄に出会うことになった。
 小生の記憶違いかもしれないが、いくつかとりあげてみよう。正誤の程は読者の判決を期待しながら。


○バルテイック艦隊は20ノットで対馬へ向かって北上しつつ.........改めて記載箇所を探したが所在不明!
○秋山真之が「司令塔の中に入ってください」..........東郷はかぶりをふった......司令塔はそれを囲んでいるぶ厚い装甲14インチとある。(坂の上の雲6巻292頁)
14インチといえば36センチである、こんなことをしてはトップヘビーとなって転覆しやすくなる。後世の諸戦艦においても聞いたことがない。
○下瀬火薬を詰めこみ伊集院信管つめこんで細長かった.......旅順艦隊の連中は「鞄・チェダモン」とあだ名をつけ..........目撃すると........薪がクルクルと空中でまわりながら飛んでくる.........6-314頁。まさか、旋条を施された砲弾は射線方向にしか旋回しようがない。 まだいろいろあるが、あら探しは後にして先に進もう。

シルエットで艦名を探索するように、バルチック艦隊における索敵風景に(6-256頁)三隊の巡洋艦隊が左舷にあらわれた.............「鎮遠がいるな」..............「松島・厳島・橋立がいます........」とある。この風影付図-1のとうり。資料と記述がピッタリ合った。




  



ここで取り上げるのは「鎮遠」である。多少艦艇史をかじった人なら知らないはずはない。「鎮遠}は清国海軍の主力艦であり、かの、黄海海戦(日清戦争)の唱歌にある「まだ沈まずや「定遠}はの兄弟艦である。「定遠」はたしかに沈んだが「鎮遠」は生き残って、今、バルチッキ艦隊の目の前に現われた。しかも、日本艦隊の一隻として。これには訳がある。事のなりゆきは次の通りである。

日清戦争の結果「鎮遠」「高陛」の2隻は日本海軍の手にわたり、旧名のまま就役することになった。世界にはままあることで、くしくも、ロシア艦隊にも「レトヴィザン」があり、スエーデン艦が捕獲されてそのままの名前で、ロシア海軍に就役して。日露開戦の直前新鋭艦にその名が受け継がれ,さらにくしくも、我が国に分捕られて「肥前」となった。この話「海と空」第3巻61頁、すべての資料を廃棄した筈、この話との再会は別の項にゆずる。
 そろそろ本題の「ゴン助」に戻ろう。明治37年5月27日午後1時55分、Z旗があがり、東郷ターンによって火蓋が切られた。しばらく「ゴン助」の記述がない、ようやく現れた(6−386頁)正に名前の通り(ゴミ取り)である。
 戦いが始まって、たちまち、旗艦「スワーロフ」之の一弾により、ロジェスト・ウインスキーは重傷を負い,乗艦も沈没をまぬがれず、駆逐艦「ベドーウイ」に移乗、さらに、この艦も痛手をおい再移乗のはめになった。そこへ、装甲された6200トン17ノットの巡洋艦「ゴン助」と駆逐艦「ベドーウイ」が現れた。どうしたことかロ・ウインスキーは駆逐艦「ベドーウイ」に移ると「ゴン助」はふられてしまった。役立たずめ!それっきり記述が現れない、何をしているんだ。
 ようやく見つかった、しかも、戦いは済んで28日午前10時蔚山沖で、先の4艦が村上艦隊に降伏する現場に居合わせていた。しかも「ゴン助」その名にふさわしくなく、優速を利かして逃亡を企てたのみか、行きがけの駄賃とばかりに打ちまくり、「浪速」「音羽」にそれぞれ1弾を命中させたが、衆寡敵せず多くの命中断を受け、もはやという状況になり夕闇迫り、鬱陵島沖にて、乗員全てが上陸,その后、キングストン弁を開いて水没した。健げなり「ゴン助」とは申し訳ない。
 余談だが、半藤一利・日露戦争史第3巻で忘れてしまった諸々のあだ名にめぐりあった。列挙しよう。


 クニャージ・スワロフ     故郷(くに)の老爺座ろう
 アレクサンドル3世      呆(あき)れた三太
 オスラービア          押すとピシャー
 アリヨール           蟻寄る
 ボロジノ             ボロ出ろ
 ドミトリー・ドンスコイ     塵取り権助

 更に、訓練風景の中に「呆(あき)れた三太」に命中。つぎの照準「押すとピシャー」。下士官たちにはこの日本語訳(?)評判がよかったのは事実とある。結構役に立ったのかな。
 しめくくりに司馬さんの名誉のためにも一筆加えたい。
 歴史を課題とした物書きは、多くの資料に取り囲まれて、個人的な思い入れの強い日記・戦記の記述に、愛着を感じあえて誇張気味を承知の上で採用したものだろう。「そうに違いない」。
 又、半藤氏の参考資料に「海と空」はなかった。
 かなり前になるが、思い立って国会図書館に照会したが全く所蔵されていなかった。でも有るところには有るんだよ。それはどこ、それは今度!

    2015-4-29

   










     零戦に寄せる思い     落合純子

  

          


 昨年八月「零戦を作ろう」という、かなりインパクトのあるCMが繰り返えしテレビから流れた。
 日本海軍の象徴「零戦」。正式には「零式艦上戦闘機」という。旧日本海軍が日中戦争から太平洋戦争全期にわたって使用し、いくつかの型があるが大戦初期の零戦が最も輝いていた時代の二一型を金属製スケールモデルとして再現しようというのである。
 早速企画した出版社に問い会せてみると、読者の熱い希望に応えて計画に踏切ったという。実機の一六分の一のスケール、週刊で一〇〇号までというから二年はかかる。
 この模型を孫(三才・男児)に作ってやろうかな、という夫の一言が事の始りとなった。
昭和一桁生まれの夫は、零戦に対する関心も知識もかなりある。一方私はある事情から零戦に寄せる思いは深い。
 栄光のヒーローか、それとも悲運のヒーローだったのか。連戦連勝の緒戦から、終盤の劣勢と特攻の悲劇までを味わったこの零戦については、然るべき多くの人が語りつくしている。今更私ごときが語ったところで何の意味もないが、それ以前に、一〇〇年かかっても自分ではなし得ないような無謀な企てをする程私は愚かではない。
 そこで毎度のことではあるが超個人的な立場から、この零戦に寄せる深い思いを綴ってみたい。しかし力量不足と記憶の瞬味さ、更にそのことを証言してくれる身近な人たちがみな故人となってしまった今、時系列に沿って整然と並べることは不可能だが、そこは読んで下さる方のご賢察に期待し、また零戦に興味のある方には独自の研究を深めて頂ければ望外の幸せである。が、いくら個人的な立場からとはいえ、テーマが零戦である以上それについて略述する必要はある。
 零戦は1937年から三菱重工が堀越二郎を設計主務者として開発を行い、三九年初飛行、以後海軍により試験改良が行われ、四〇年(皇紀二六〇〇年)正式採用になり,皇紀の末尾数字をとって零式とした。旧日本海軍の中で最大の10430機が生産されたが、二一型は全幅12.0M、全長8.7M,940馬力の空冷エンジン、最大時速509km(高度5000m)。極限までの期待の軽量化設計にこだわる海軍の厳しい要請に、天才設計技師・堀越二郎が見事に応えた。
 真珠湾攻撃の初め、フィリピン進攻など破竹の快進撃を支え、ゼロを見たら戦わず逃げろ、と連合軍パイロットに指示するほど圧倒的優勢を誇ったが、その後のアメリカが優れた戦闘機を多数投入したことから形勢は逆転、最後は爆弾を装備し特攻機として使用され、航空劣性を挽回できぬまま終戦を迎えるという悲劇的な結末となる。
 零戦といえば堀越次郎、堀越二郎といえば零戦。その堀越二郎は明治36年、群馬県多野郡美登里村に生まれた。美登里村は50年前に、近隣の五村と共に旧藤岡町と合併して現在は藤岡市となっているが、この美登里村こそ私が愛してやまない私のふるさとなのである。そして私の父もこの村で明治36年に生まれた。つまり堀越二郎と父はこの美登里小学校で6年間をともに過ごしたことになる。
 話は少し飛ぶが、私が小学生高学年から中学生の頃、家庭内で時々「ジロウさん」「ゼロセン」という言葉を耳にしたものだ。父が祖母や母・兄に話す会話の中に登場した言葉だったが、ゼロセンの正体は不明のまま。
 しかしジロウさんなる人物がただのネズミではないらしいことは、父の話の様子から察知した。
そして父の自慢は「同級生の中でサルマタをはいていたのは、ジロウさんとボクだけだった」というものだった。当時私は揮というものの存在を知らず、他の人達は何もはいていなくて冬は寒くなかったかしらと、長いこと思っていたので、気がついた時はひとりで赤面したものだった。ジロウさんは我家にも何度か遊びに来たということだが、その辺りの詳しいことは聞いていない。
 話は戻って、小学校の頃からジロウさんの頭脳はバツグンだったらしい。小学校を終えた二人・堀越二郎と不肖落合賢一 (ここに父の名を記す不遜は許して頂くとして)は、村の期待を背にサルマタをはいて藤岡中学校(旧制) へと進む。
 人には持って生まれた器というものがある、というのが私の持論なのだが、これは運命そのもので、それを努力で越えようにも当然のことながら限りがある。中学までは一緒だった二人だが、その先は右と左へと大きく別れてゆく。
 とんでもない頭脳を天から授かったジロウさんは、一高・東京帝国大学(それも難関の工学部航空学科)へと進み、一方父は群馬大学の前身である群馬師範へ。
 一高・東大を共に首席で卒業したジロウさんは三菱内燃機梶i現在の三菱重工)に入社し、名古屋航空機製作所に勤務。そして零戦を初め、雷電・列風その他数々の戦闘機の設計主務者として、日本の近代史にその名を残す活躍ぶりは周知の通り。
 ところで私は終戦の前年、つまり昭和一九年に小学校に入学した。戦局もかなり厳しくなっていた頃だったがそんなことは知るよしもなく、「太郎さんも花子さんも同じこと/心は立派な兵隊さん/がんばりましょう勝つまでは」と両手に日の丸の小旗を持って元気に踊ったものだが、私は今だにそのメロディも振りも正確に憶えている。
  同級生の中に疎開児童が何人かいたが、翌年の三月、三学期もあと十日で終わるという時にT少年がやって来た。小学校は細長い村の中心にあって、Tの家と私の家は南北の両端にわかれていたのでT家の様子は直接伺い知ることは出来なかったが、先生や級友の話を総合すると、仕事の都合で父親を東京に残し母親とTを含む六人きょうだいとお手伝いさんの八名で父親の郷里である当地に疎開してきたのだという。母親の出自は相当なもので、お手伝いさんは母親の輿入れの際に里からついて来たねえやさんだということだった。
 Tは背が高く端正な顔立ちで、服装も垢抜けていることから、我々土着の子とは一線を画し、幼心にも良家の子弟だということはわかった。勿論成績も優秀で、なんであんなことを知っているのかと、不思議に思うこともしばしばだった。
 その一方で同級生の中に、美土里小学校開校以来ではないかと言われる程の悪ガキUがいた。校長・教頭共に長い教師生活の中でも初めてだという程の悪童ぶりで我々一二〇人の同級生は一人残らず彼の被害に遭っている。 Uの悪行の一端をあげれば、授業中であっても教室の中を走りまわり、他のクラスにも勝手に出入りする。暴力をふるって弱い者いじめはする、好きな時に学校にやって来て好きな時に帰ってしまう、注意する若い女教師などは追いかけまわして泣かせてしまう。そこでUの机は教壇に立つ先生の横に置かれたりもしたが、後向きに腰掛けてニヤニヤしながら授業の邪魔をするので、逆効果。私は彼がまともにランドセルを背負った姿を見たことがない。自分の気に入ったものだけを薄きたない風呂敷に包んで腰に巻きつけ、いつも走ってやって来る。 私は入学当初からUのいじめに遭っていた。家が同じ方向にあったため、登下校中の路上で私のランドセルを引っ張ったりつついたりする。学校の廊下では、オットットと言いな がらよろけた振りをして体をぶつけてきたかと思えば、後から突然つきとばして、ポットだ、ポットだという(ポットというのは方言で、うっかりとか偶然というような意味)。私はUがこわくて仕方なかった。そして更に不運だったのは彼が妙に早熟だったことである。いつの頃からかUは丁と私の仲が怪しいと言い出した。多くの級友がそうであったように私もTに好感は持っていたが、そうした感情は全く芽生えていなかった。Uは私の顔さえみれば一日中そんなことを言い、トイレにはヒワイな落書きをする。
  あまりのひどさに父が学校に申し出て、担任は勿論、校長・教頭も動いてくれたが、Uの行動は全く改善されなかった。Uの父親も時々呼び出されていたようだが、これがまたUとは似ても似つかない律気そうな人で、我子ながらどうにもならなかったらしい。親の力にも限界があるのだとその時思い、今では更にそう思っている。
 そうこうしているうちに終戦となった。私たちが小学二年の八月、あの暑い日の詔勅は今も確かな重みと共に耳に残っている。
 単なる終戦ではなく敗戦という形で終わったことで、我家の生活環境は一変した。勿論詳細は後年知ったことだが、連合軍の占頷下、1946年「自作農創設特別措置法」が公布され、四七年から五〇年にかけて実施された農地改革によって、我家は五十町歩の田畑の殆どを失い裸同然となった。
 全国の旧地主の中には自殺する者も相次いだということで、その時の父の呆然とした姿は幼心にも鮮明に刻印されている。不在地主は認められず、僅か二町歩の土地を死守するために両親は共に教職を辞し、末っ子の私も含め家族総出で俄百姓に従事したあの何年かは辛いもので、特に田舎の生活に不慣れな母の寿命を縮める遠因となった。こうして私は二度目の母を失うことになる。
 しかしこの敗戦が、一地方のささやかな地主などとは桁ちがいの重圧をT一家にもたらした実情を知ったのは、その時から六十余年も後のことであった。
 Uのいじめはずっと続いていた。しかしそれを上回る幸運が訪れた。終戦の翌年のA先生とのめぐり会いである。先生のことは本欄で何度も触れたが、私たちは先生を母とも姉とも慕い、昨年先生が亡くなるまでの戦後六十三年を先生と共に歩いた(先生の葬儀は皮肉にも私たちの同窓会の様を呈したのだった)。
 私は異常な程先生を慕い、三・四・五・六年と、四年間お世話になった。年に一度クラスがえがあったが、私の担任は決まってA先生。私の我儒から親の七光りを利用したことは確かだが、Uのこともあって学校側も配慮してくれたということらしい。女学校を卒業したばかりの一八才で教師になった先生は、持ち上げ、持ち上げで、結局二十一才の若さで六年生を受持たされる異例の事態となり、他のクラスのベテラン教師の中でかなりの負担を強いられたわけだが、先生は頑張り抜いてくれた。
 先生はUにも随分心をかけたが彼には通じなかったのだろうか。現在と違って時には教師の鉄拳が通用した時代で、Uは何度となく男性教師にボコボにされたが、ある時彼が私のことを憎からず思っていると白状したことで、根本的な解決は不可能だと見送られ、いわば対症療法のような形でその後も何度もボコボコにされていた。
 Uの根気のよさにはホトホト閉口したが、Tもよくよくうんざりしたらしく、必然的に私に背を向けるようになる。Tの気持ちもわからぬではないが私自身は一言も言ってないのにと、二人がなんとも怨めしかった。そんなマイナス要因がありながら、学校と名のつく場ではこの小学校時代が一番楽しかったと今でも思えるのは、A先生の存在以外には全く考えられない。 こうしてTとは何一ついい想い出を作れないまま、六年生終了と共にT一家が東京に戻ったことで、もう二度と会うこともない遠い人となった。
 そして私たちはそのまま一二〇人体制で中学生になった。勿論Tの姿はなく、これでUにあれこれ言われる筋合いはなくなったと思ったが、それはとんでもない早計だとすぐに判明した。
 今度は、Tがいなくなって寂しいだろうと、私の顔さえ見ればその都度からむ。さすがに手を出したりはしなくなったので先生に訴えるわけにもいかず、まして担任は無神経そうな兄ちゃんで相談にもならない。他の男子生徒は次の標的になることを恐れて、私に寄りつこうとしない。そんなことは親にも言えない年頃でもあり、A先生の庇護のもとを離れて私は初めて強い挫折感を味わった。
 仮にTがいたとしても所詮中学生、私を庇ってくれることなどあり得ず、もっと泥沼化し互いに憎しみ合ったにちがいない。幸いTはいない。そんな中で私の心に微妙な変化が生じ始めた。Tを恋しく思う気持ちが芽生えたのだ。これが私の初恋である。 相手不在の極めて変則的な初恋ではあったが、それだけに私の王子様は思いのままに理想化され、Tの実像とはかなり乖離していたと思う。当然のことながらTは全く預り知らぬことであり、私も口にしたことはない。
 一年もするとUもさすがにTのことは言わなくなったが、相変わらずカンシの目は続いた。小・中の九年間で私が学校を休んだのは三日だけ。健康だけが取柄のUは殆ど欠席はなかったと思う。従って丸九年間、私はみっちり彼にいじめられ続け、中学卒業でようやく縁が切れた。
 Tが堀越技師の長男であることを知ったのはこの頃だと思うが判然としない。幼かったTよりも当時のTの両親のことを熟知していたA先生から、二郎氏が授業参観などで美土里小学校を何度か訪れていたことを後になって聞いたが、零戦の真価を全く認識していなかった私たちの記憶にのこっていよう筈もなかった。
 Tは東京へ行ってからもA先生との交流は続いていたのでその後のTの様子を先生が折に触れて話してくれた。父親の母校である東大を卒業して某一流企業に入社したこと。才色兼備の奥さんと幸せに暮らしていること、そして任地先のアメリカやベルギーから届く絵葉書を見せて貰ったりもしたが、私にとってはもう遠い過去の人となっていた。
 結婚後は零戦のことがマスコミで話題になる度に夫から講義?を受けて、零戦に対する知識を深めていった。
 昭和五十六年十二月十一日、父が他界した。七十八才だった。農地改革という時代の波に翻弄され、二人の妻に先立たれ、晩年は脳卒中によって半身の自由を奪われたが、継母(父にとっては三人目の妻)のこれ以上はないという程の手厚い介護に恵まれたことで、父の人生は幸せであったと総括している。継母から父の死の一報を受けた時、私はまず安堵の胸を撫で下ろし、継母に手を合わせた。しかし親が死んでいい筈がない。まして生母の顔を知らない私にとっては父が総てであった。ああ、これで私もみなしごになっちゃった、とつぶやいた私に、夫は、きょうだいも子供もいる四十四才のおばさんのことは世間ではみなしごとは言わないんじゃないの、と言ったが、私は断じてみなしごであり、ことの外寒さが身に沁む越年となった。
 明けて五十七年一月十一日、堀越技師の訃報を新聞で知った。奇しくも父の死からちょうど一ケ月後のことであった。喪主は長男・雅郎氏、とあった。久しぶりに見るTの名前に、ああ、Tはこの世に現存しているのだと一瞬思ったのも無理からぬことで、別れてから三十二年の日が過ぎていた。ジロウさんの魂はあの澄んだ美土里村の空に還ったろうか、そして一足先に出掛けてしまった父は、ジロウさんを迎えることが出来たろうか。 それから二十六年後、思いがけずTと再会する日が訪れた。一昨年の同窓会(祝古希)にTが初めて顔をみせたのだ。実に五十八年ぶりの再会である。街ですれちがったのであればまず互いに気づかなかったと思うが、一堂に会すれば一目でTとわかる。 父親ゆずりの長身はそのまま、十二才の少年は堀越技師の長男にふさわしい風格ある初老の紳士と化していた。一方私はといえば、おばさん度一〇〇%、エンジン全開で積年の思いを彼にぶつけた。
 小学生の頃あなたに冷たくされて怨めしかったこと、中学生になってもUにいじめられてあなたを恋しく思ったこと、堀越技師のご長男とも存じませんでご無礼しましたこと、父から開いたジロウさんのこと(少し迷ったがサルマタの件も)、そして、お父様を超えられませんでしたね、と要らぬことまで言った (世界の堀越を超えるには、一体何をすればいいというのだ!)
 終始静かな笑みを浮かべながら耳を傾けていたTは遠い目をして、私に冷たくしたことは全く記憶していないと言う。私は拍子抜けしたが、続く彼の話は信じ難いものだった。 戦後の逆風の中で二郎氏は心身を病み、廃人同様の日々があったこと、そんな姿をみて敢えて父と同じ道は選ばなかったこと、それでも後半は東京大学や防衛大学などいくつかの教授や講師を務めて平穏な晩年であったこと。
 しかし彼は父の栄光については一言も触れなかった。それに反して何かと自慢たらしい私はこの件に関しても、我が郷土が世界に誇る偉人・・・などと無責任な認識しかなかった。改めて零戦に関する資料を集めた。事は私が考えていた程単純なものではなかったと思い知らされた。
 防弾を施さずパイロットの命を軽視した設計思想の主務者として堀越技師は世間の非難をあびた。緻密で融通のきかない学者肌の技師はそんな世評に敏感に反応し、病に臥すほど疲労困懲したという。軍事技術の開発に従事した人達は、理不尽で非合理な要求を突きつけられ、現場で深刻な矛盾をかかえ込むことになる。その責任はどこにあるのか。
 作家の前田孝則氏は「技術者たちの敗戦」の中で次のように言っている。  「万が一にも日本が勝利していたり、あるいは零戦がまだ華々しい活躍を演じていた太平洋戦争の前半期で停戦、和平へと持ち込まれていたならば、堀越はまちがいなく救国の技術者として、日本の一大英雄としてまつりあげられたにちがいない。日本の敗戦が彼の運命を大きく左右したともいえよう」
 続いて堀越自身の著書「零戦」から引く。 「私の幼い夢は道路からでも飛び立てるような小型の航空機、汽船に代わって世界をつなぐ交通機関となる豪華輸送機、極地や山岳を探険するに便利な型式の航空機などにあったが、現実はそれに反して軍用機のみに没頭した」
  「思えば当時の日本は、もし望んだなら、互いに侵さず侵されざる理想の文化国家を築き上げ得る環境と実力に恵まれていたのではなかろうか。しかるにそれを一朝にして失い、自らを泥沼の境遇に投ずるとともに、近隣の人々に償い得ないような惨渦を及ばす愚をあえてした」。
 東京帝大航空学科を代表する教授として数多くのエリートを送り出し、また流体力学の権威として欧米にも知られる守屋富次郎は、教え子の中で誰がもっとも優秀だったと問われて、やはり堀越君だろうかね、と答えたという。そんな頭脳を今に生かすことが出来たら、と思う反面、航空界の創成期に持てる力を存分に発揮し、斯界に大きく貢献できたことは幸運であったとも考えたい。堀越技師の胸中は測る術もないが、ふるさとの空で待った父は、ジロウさんお疲れさまでした、と万感を込めて迎えただろうと、私は勝手に考えている。
 Uのことは思い出すのもいまいましいが、彼がいなかったら零戦に対する思いもかなり単調なものとして終わっていたことは確かだ。振り返ってみればこの一連の流れに於いては、彼の存在も重要な構成要因の一つであることは認めざるを得ない。
 Uとは中学卒業後一度だけ会ったことがある。水上温泉で開催された同窓会に珍しく彼が顔を出したのだ。その日私はUが出席することを知らなかった。先に会場入りしていた私は、入り口に設けられた受付で彼が、A先生と私に会いに来たと言っていると伝え開いて、一瞬凍りついた。子供の時とは事情が違う、彼の思いが再燃したらどうしようと。
 しかし彼も家庭を持ち子供もいることからその心配は全くないと、彼の近況を知る友の一人から聞いてホッとしたが、互いに、お久しぶりですと挨拶を交わしただけで、私はなるべく目を合わせないよう努めた。彼もさすがにバツの悪そうな顔をして、私に話しかけることもなかった。時は流れて、その時私たちは五十才になっていた。それにしても、どう聶眉目に見ても美人とは縁遠い私のどこがそれ程お気に召したのか、一度訊いてみたいものだが、もう会うことはない。
 模型の制作は順調に進んで四月十日現在三十二号まで届き、完成像が予想出来るまでの姿になった。内部の骨組み、エンジン、コクピットなど、細部にわたって実根を忠実に再現、パ’‐ツ総数七〇〇点以上・・・と謳っているだけに、かなり精巧なもので、夫は時には拡大鏡を片手に奮闘している。
 間もなく四才になる孫が時々やって来て、幼いなりにも何かを理解しているらしく、いつものヤンチャぶりはどこへやら、ジロセン、ジロセンとつぶやきながら、神妙な顔で覗きこんでいる。男子である以上この子もいつかこの伝説の名機が、かつて世界の空を制したことを知り、興味を持つにちがいない。
 残念ながらこの先何年この子をみることができるのか心許ない私たちだが、ジーとバーが思いを込めた「ゼロセン」を、戦争の悲惨さと併せて語り継いでくれることを希い、同時に、再びこの子らが銃を揺らなければならない日が来ないことを心から願ってやまない。
 末尾に、平成十五年に届いたA先生からの年賀状を掲載させて頂いた。文中の私への評価はかなり的外れであることは重々承知の上だが、Tと私の名前が並んでいる先生からのものは、もうこれだけしか手許に残っていないのでやむを得なかった。
 父が去って二十九年、こちらは諦らめがつくとしても、A先生にみて頂けない心残りは筆紙に尽くし難い。
 この稿を書くに当たり、東京在住のT、いや雅郎氏の了解を得た。私の申し出に何の注文もつけずに快諾してくれたばかりか、父上の著書や写真など貴重な資料を送ってくた。
夫人にもご協力頂いた。
 お二人に改めて感謝の意を伝えたい。


    A先生の年賀状

              


    2015-4-22

   



















      戦艦ポチョムキンと女帝エカテリーナ   大幡

           軍国少年の海と空のものがたり その2 

   

        



 「戦艦ポチョムキン」は1905年黒海艦隊に就役した。かつ、エイゼンシュタイン監督による映画の題名でもある。
 映画の世界では、チャプリンの「黄金狂時代」と共に無音映画の双璧としてあげられる。1905年オデッサにおける水兵の叛乱を題材として、特にリシュリユー階段での水兵の一斉射撃下、幼児をのせたうば車が母親の手を離れて、ゴトゴト下へ行くシーン。之が名場面として称えられている。
 結果は、叛徒を抑えようとセバストポリ港から出撃した戦艦5隻よりなる艦隊と、迎え撃とうと出港した「戦艦ポチョムキン」がオデッサ沖ですれ違い、両軍の水兵がウラーと歓声をあげ、「兄弟たち」「オオ」の字幕が出て終わる。
 ところで、「ポチョムキン」とは女帝エカテリーナ治世下で再も功績のあった宰相であり、且つ、成年期には女帝の愛人でもあった。
 さて、このエカテリーナ、大変な女である。(アンリ・トロワイヤ著女帝エカテリーナによれば)1727年、プロイセンの貧乏貴族の生まれで、14才の時、たった4台の馬車でロシア宮廷に輿入れするこになった。皇女和宮の行列が一宿場を通り抜ける」のに、3日3晩かかったのに較べ、何と貧弱なことか、之には反対派の目をあざむく一面もあったが。
 嫁して十余年、夫「ピョートル三世」をほうむり女帝に就いたのみならず、在位34年間後宮に10人余の公式愛人を歴任させた。あるフランス外交官によると、

 オルローフ兄弟        (添付資料 1)
 (ヴィソツキー)     リムスキーコルサコフ
 ヴァーシーリチコフ   ランスコーイ
 ポチョムキン      エルモーロフ
 サヴァードフスキー  マモーノフ
 ジーリチ         ズーボフ兄弟
 となる。

 余談だが、ここにあるリムスキーコルサコフは著名な音楽家とは全く別人である。
 ポチョムキンは1770年、31歳の時に10才年上の女帝エカテリーナの寵を得て3代目としてねやに伺候することになったが、数年後には陸軍副長官としてブガチョフの乱を制する等、夜昼精励を盡した。
 一方、その在位中に二度の露土戦争に完勝して、黒海北岸に面するウクライナ・クリミアに版図を拡げ、大いに治績をあげた名君でもある。 
  
   付図 1
              エカテリーナの治績図
  



 この新領土、ドニエプル河巡航時に、ウクライナの「ポチョムキン村」という話がある。女帝の巡行に合わせて一日限りの王道楽土を演出した。著作の一部を引用する

  資料2  P344-2か所

  「船はしばしば河岸に横付けになる。家々の正面は、花輪や壁掛けで飾られている。すべてがほほえみ,親しげで、富栄えている。ロシアには幸福な人間しかいないとでもいうように。荒果てあばらやは一軒もない。ぼろを着た乞食もいない。人相悪い連中は河からはなれた奥地に追いやられてしまったし、くずれかけた陋屋はペンキ塗りの木の小屋築で隠されている。ポチョムキン式極楽とでも言おうか、」  P344 その1引用

  「様々の演出が船とともに移動しつつ繰り広げられる。無から村落が出現する。一夜のうちに、労働者が一度しか人の通らぬ道路を切り開く。一度しか目に触れぬ庭園を造りあげる。女帝が通り過ぎると、これらの不幸な人々はまた家に追い帰らされた。」
         P344 その2引用

 余談だが、ソ連時代に似たような話があり、西欧の名だたる言論人がたやすくあざむかれたが、このような詐術はロシア人の特性なのか!
 長い内陸国家の歴史を経て、ようやく、大帝「ピョートル一世」がバルト海に覇を遂げたが、北海の入口をデンマークに抱され、そこで、  鉾先を変えて南に向かい、 17世紀末から百数十年を費やす露土戦争が始まった。その中間期にあって、エカテリーナは最大の功績をあげた。
 さて 「戦艦ポチョムキン」は排水量12,900トンの戦艦として、オデッサ近くのニコライエフ工廠第7船台にキールを据え、難行苦行の4年余をかけ1904年10月ようやく進水式を迎え「クリヤージ・ポチョムキン・タブリチェスキー」と命名され黒海に浮かんだ。吃水が関係してセヴァストポリで最終艤装される頃、年が代わって1月2日旅順が陥落してロシア中に敗北感が漂う中、翌々日ささやかな歓びの時を迎え黒海艦隊の戦艦として就役した。この18日后ペテルブルグの凍てついた路上で、コサック兵による銃撃「血の日曜日」が発生した。
 わずか数か月たって、5月27-28日バルテイック艦隊が消滅して、6月27日ポチョムキン艦上で、ウジのわいた腐肉をそのまま使ったボルシチに、水兵たちの不満が爆発した。十数名の士官が殺され艦は暴徒達に占拠された。
 戦艦「ロスチロフ」を先頭に「シノブ」 「スヴヤテイーリャ」 「アストロフ」次いで「ゲオルギー」の5戦艦が駆逐艦等を従えて鎮圧にむかった。オデッサ沖で出撃したポチョムキンとすれ違うことになったが、旗艦の指揮官が一斉射撃を下命したとき、水兵達の反乱の引き金になることを恐れて、只偵察に止めて基地に戻ることにした。が、5番艦のゲオルギーがポチョムキンの水兵たちの呼びかけに応じて、士官を軟禁状態にして合流オデッサに向かった。時に、日本海海戦后翌々月、日本軍が戦果を拡げようと樺太に出兵したころであり、ポーツマスの講和条約交渉もたけなわであった。
 ニコライ二世に黒海艦隊の不祥事が伝えられ、ウイッテに寸土もゆずるなと厳命していたが、南半分の割譲の結果になにがしかの影響があったと思われる。
 その後、本隊の出動により「ポ号」は鎮圧され、セバストポリに引き戻され、不名誉なこととして「パンテレイモン」と改名された。
  余談だが、この叛乱に明石大佐が関係したとの風説があるが、確かな資料によれば全く関係なかったとされている。
 その后の「パンテレイモン」だが、チャ−チルの企画したガリポリの作戦に呼応して,黒海に進出したドイツ戦艦「ゲーベル」と遭遇、自らの2倍もある巨艦を相手に2発の命中弾を与える健闘をした。
 やがて、ロシア革命が起き、ロマノフ帝国の崩壊と共に、艦名変更の波が押し寄せド級戦艦「エカテリーナ」は「スヴァーボードナヤ・ロシア」(自由なロシア)等と改名されるなか「パンテレイモン」は旧名の「クニヤージ(大公)」をとって「ポチョムキン・タヴィリチェスキー」とされたが、少々収まりが悪いのかしばらくして「ポレツ・ザ・スヴァボド」(自由のための戦士)と改名された。いみじくも両船の名に主従のようなにほいがする。
 4代にわたる改名の末、「ポチョムキン」は廃船の運命をたどり、一万トンの鉄くずとして革命政権に寄与した。
 最后にエイゼンシュタインだが、ソ連建国から3年経過した1925年8月、内戦の影響を受けこのうら寂れたオデッサの港を見下ろすリシュリュー階段に、27才の青年が立った。ひらめいた、ここでペテルブルグの「血の日曜日」を再現しよう。1905年のポチョムキンの叛乱を重ねて描こうと思い立った。奇しくも艦上の場面は、鎮圧のために出動し、今や廃艦寸前の「アストロフ」号を使って撮影された。その年の暮、彼にとって二作目の作品はモスクワ・ボリショイ劇場で上演された。彼の名はセルゲイ・エイゼンシュタインである。余りにも映画は出来が良かったので、リシュリュー階段の出来事は本当にあったと大衆に信じ込まれ、一部の史家にも誤認されている。

   

 余談だが、リシュリュー階段の由来は、エカテリーナがオスマン帝国から獲得した黒海北岸のノヴォロシア(新ロシア)の中心に輝くオデッサ、その中心階段で、この新しい街の建設に功績のあったフランス亡命の貴族アルマン・デ・リシュリューの名をとったものである。なお、フランス戦艦「リシュリュー」は全く別人で17世紀フランスの大政治家である。
 (寺畦彦・戦艦ポチョムキンの生涯より)



 日本版字幕 映画 戦艦ポチョムキン  73分
  https://www.youtube.com/watch?v=_Glv_rlsdxU



      1905年 黒海沿岸図
   


    露戦艦 ゲオルギー・バビエドノセツ  
       10,500トン 30.5cmx6 主砲
   

    露戦艦 ポチョムキン
         12,900トン  30.5cmx4 主砲
    

      独戦艦 ゲーベン
          23,000トン  28cmx10  主砲
   


        2015-5-20


   











    B25ミッチェルとドウリットルの東京初空襲 

     目撃者ここに語る!      大幡   
            軍国少年の”海と空”のものがたり その3 

    

     
            
    
  昭和17年4月18日昼下がり、小生ピカピカの中学1年生、飛鳥山発須町行きの市電車中にいた。 本郷3丁目を過ぎた処で、フト車外を見ると、双発機が1機御徒町から春日町方向に向かって飛んでいて、その後を高射砲の弾幕が追いかけている。 しばらくして空襲警報のサイレンが鳴り響いた。あとになって、ドウリットルによる空襲で、機体はノースアメリカンB-25ミッチェルと知った。

 およそ5か月前、12月8日真珠湾攻撃と共に大東亜戦争が始まり、当日の朝礼で校長先生の音頭により万歳三唱にわきたったが、教室に戻ると小学6年生を相手に、担任の浅川先生は口をふるわせ、とんでもないことだ、日本はメチャメチャになる、東京は焼け野原になると憂えていた。しかしこの日以来新聞が面白くなり毎日のようにカジりついていた。又日本国中が湧きたっていた。

 その一方、アメリカではリメンバー・パールハーバーと大いに盛り上がった国民も一方的な敗戦に政権を責めたてる声が大きくなってきた。

 余談だが、17年の初頭(2月頃か)ヒラヌマ撃沈という記事がアメリカ誌上を賑わした。k勝報を待ち望むマスコミの勇み足であろう。こちらではヒラヌマなんて有りもしないのが沈むものかとアザ笑った記事を記憶している。
 ルーズベルトとしては欧州不干渉・中立維持で3選した立場から、参戦の機会を得るため日本を挑発、何かやってく来るとは事前に承知していたが、想定を越えた損害に、日本に対して一矢報いなければと、急遽、戦術的な効果を無視して、只戦意高揚を意図して東京を空襲せよと軍部に指令した。これを受けて内密にしかも早急に作戦が立てられた。
 

       

 艦上機による爆撃には、既に分かっていた日本の東岸500カイリの警戒線を突破、300カイリに近寄っても爆装して往復できる航続力のある艦上機は無かった。計画は頓挫したかと思われたが、一参謀が大航続力のある中型機を空母に積んで、しかも空母を発進して東京爆撃後、そのまま西進して蒋介石支配下の飛行場に直進すれば生還の見込みありと提案した。
 作戦は息を吹き返した。B−18,23,25,26が候補に挙げられた、諸種の検討が行われ、特に空母の艦巾からB−25ミッチェルが選定された。
 この機体はノースアメリカン社で1939年に試作され、そのテストが良好で結果を待たずに量産機発注がなされた。その要目は全巾20.6m、自重8.84トン、最大速力438km、最大航続距離2175km、エンジン出力1700hp2基である。
 

               
                ノースアメリカン B-25 ミッチェル 

 ミネアポリスの陸軍航空基地で、B−25塔乗員に重要だが面白みのある任務の志願者がつのられた。その他の基地を含め80人を越える志願者が集められ。 メキシコ湾に面するエグリン基地で訓練が始まった。それはいささか不思議なもので超低空飛行・夜間飛行に加えて異常な短距離での離陸訓練であり更に徹底した省エネ飛行で限界までガソリンを薄くして飛んだ。
 一方、海軍では新鋭のホーネットを母艦に決め、エンタープライズを護衛につけることにした。
 サンフランシスコ・アラメダ基地で16機のB−25がクレーンで積み込まれ、飛行甲板上に固定された。従ってホーネットはB−25が発艦しない限り格納庫内の機体は一切発着艦出来ない状態である。そこで専ち護衛のためのエンタープタイズが必要となり、これに加え巡洋艦5駆逐艦7その他を従えて4月1日金門橋をくぐり、太平洋に出撃した。

 余談だが、B−25ミッチェルについて、機名にはトマホーク、エアコブラ等鳥獣の名前が使用されているが、人名が冠された機体は希である。
 アメリカ陸軍航空隊のウイリアム・ミッチェルは第1次世界大戦の航空戦を目撃して、やがて、次の戦争では爆撃機が強力な戦力になると確信した。1916年通信局副長となり、1年の経験を加えて、航空部隊を「戦術航空部隊」と敵国領土深く爆撃する「戦略部隊」に分割し、それぞれ独立しtr運用することを提案した。実戦には間に合わなかったが、このほか様々な戦術を考案した。海軍のマハンにも匹敵するかの様である。
 下って,1929年(昭和元年の前年)アジアの情勢の視察時に、長崎で日本艦隊とその上空を飛ぶ戦闘機の編隊を目にして「もしかすると、強力な空軍力に発展してハワイが奇襲攻撃を受けるかもしれない」とつぶやいたといわれる。その后日本の大陸進出に従って、益々対日戦の発言・論評が多くなった。B-25ミッチェルがこの人との確証はないが、何か因縁のようなものを感じる。

 ホーネットに戻る、航海は順調に進んだが、予定の前日18日早朝、思いがけないところで、日本の哨戒艇に発見されてしまった。これは第23日東丸によるもので、既に発見の電信が打たれている、もう1日分前進が出来なくなり、予定の倍近い800カイリで強行発進することになった。

                     
                      第23日東丸 6時45分空母発見と打電

 8時15分ドウリットルの乗る1番機が見事発艦、最后の16番機が9時16分出撃した。編隊を組む余裕はない、僚機を視認するのがやっとの単独飛行である。本郷3丁目で目にしたのが何号機か分からないが、単機であったことはうなずける、しかも数百メートルの低空飛行であった。そして、全期発進するやホーネット等はすぐさま反転して東へ去って行った。
 さて発進したB-25だが、各型総計11000機も生産された傑作機だが、この作戦に当たり、胴体下面の動力砲座を取り外して、長距離飛行のためにオートパイロットを取り付け、墜落して日本軍の手に入ることを恐れ、新型の爆撃照準機を旧式に取り換える等手を施し、500ポンド(約220kg)爆弾4発を積み、ガソリンタンクを満タンにしたうえ、5ガロン(18リットル)缶10個を積み東京を目指した。

 一方第23日東丸だが、18日午前1時過ぎ、軽巡ナッシュビルのレーダーにとらえられ、夜明けと共に、エンタープライズ発進の索敵機により、午前5時ごろに発見された。「艦上機らしき3機発見」「敵空母1隻見ゆ」さらに「敵大部隊見ゆ」との無電を最后に通信は途絶えた。しかも、エンタープライズ艦上機による索敵は付近海面を3時間にわたり、展開していた、第2、3哨戒隊に攻撃を加え、沈没日東丸、長渡丸の2隻,大破船体放棄4隻、中小破7隻、戦死者33名を数えた。

 これらの日本の哨戒隊は犬吠埼東方700カイリの海域に配備された哨戒線であったが、開戦早々米機動部隊による本土空襲を想定し、特に東京空襲が国民に与える心理的影響を重視して、山本長官により発令されたのである。 北海道釧路を母港とし、1隊20隻、3直交代3隊で編成され、現地哨戒配備日数7日間、往復に要する8日間を考えると、基地での整備休養期間は僅か数日間しかない、しかも100トン前後の漁船を徴用し乗員は海軍軍人と漁船員半々の14名であり、荒天に耐えしかも、敵発見が即死につながる苛酷な任務である。 戦中に就役した哨戒艇は総計400隻を越え、終戦時に残ったのは100隻にすぎなかった。

 B-25機上に戻る、夜間発進の予定が早まり、燃料節約のため低空で、しかもギリギリの巡航速度で日本本土上空を、東から西へ千キロ近くの横断飛行である。しかも、ようやくシナ本土に達するころは夜となり、全く始めての土地である。結局、ウラジオストックに向かった1機を除いて、11機が落下傘降下、4機が不時着となり、機体は全て損壊した。内2機の8名は日本軍占領域で捕虜となった。


           
       
 日本側では、8機撃墜と虚報され、シナ大陸でとらえた飛行士を急遽東京に運び、九州北部で墜落とされ航空服のまま目隠しをされた写真がニュースに登場した。しかも新聞紙上で、落下傘降下した3名が怒った市民によりリンチを受け死亡したという記事があった。8名中の3名が、市民殺傷の盲爆責任者として処刑され、戦後、BC級裁判の冒頭を飾った。

 さて、山本長官肝入りの我が国の防空体制であるが、日東丸の警報を受けたが、主力の機動部隊はインド洋に出撃、イギリスの空母ハーミスを撃沈する等の戦果を挙げ帰投中で間に合わず、陸上部隊をあてるしかなかった。直ちに索敵機が数機が発進双発機(B-25)を発見したが空母は見つ「からないまま、1式陸攻(通称葉巻)22機他が木更津基地から出撃した。こちらは通常の艦上機による攻撃を想定しており、既に反転して去った海域を空しく探し廻るだけであった。

 この作戦による損害はさしたるものでなかったが、我国の指導者に与えた心理的な効果は絶大なものがあり、立て直そうとしたミッドウエイ作戦が、大きな齟齬を来す遠因になったのではないか。反対に、アメリカに於いては国を挙げて溜飲を下げたと思われる。そして、先のヒラヌマを笑った日本は、半年もしないで、ミッドウエイの敗戦を糊塗して、全く反対の立場に立たされることのなった。



  ドーリットル空襲1972  8分
  https://www.youtube.com/watch?v=IGoP83BvcrM


           2015-6-10

  











     映画 フューリーによせて 1  大幡

            フューリー、プライベートライアン、 映画のうそ

  
               


  フューリー、ブラッド・ビットが奮戦して最後に散華するシーン。隊伍を整えて高らかに歌い乍ら行進する300人余ドイツ軍、錯綜する前線で、こんな間抜けな戦闘集団があるだろうか。この映画、このシーンまでは、見事に戦場とはかくあろうかと、手に汗してストーリーにのめりこませてくれたのに。
 木陰にかくれた斥候が見つからずにブラッド・ビットの下に帰った、それから延々と防衛体制についてゴタゴタして、ようやく戦車に乗り込むことになる。かなり時間が立ってドイツ軍が到着する。何をマゴマゴしていたのか、しかも、射撃場の飾りつけの人形のようにバタバタと機関銃の餌食となる。300人がかりで何としたことか。
 相手はキャタピラーをやられ、路上に擱座した戦車1台であり、何の掩体もないトーチカそのもの、しかも周囲に連携する銃座もない。極ありきたりの指揮官でも、3・4方向から忍びより、数発のバズーカであっという間に処置するはず。
  似たようなシーンがプライベート・ライアンでも展開する。こちらは徒歩の斥候兵に対し、軽装甲車で立ち向かいバタバタと撃ち倒され、めでたくライアンが生還してTHEEND.となる。
 ヒューリーは1人の新米兵が奇跡的に救助され、残りは隊長以下全滅する。ビットには気の毒だがこの方が真迫感がある。

  さて、プライベートライアンだが、4人兄弟の上3人が全て戦死し、只1人残されたライアン、あろうことか敵陣深く威力偵察隊に加わっている。彼までも戦死されては世論の憤激は目に見えている、陸軍最高司令官の何としても助け出せという命令に始まった物語である。
 かっての日本軍でこのような感覚の幹部が居たろうか、ここに民主主義国の強さと文化の高さに酔いしれて映画を見終わった。
 プライベートとは4人兄弟の私の事柄を指すのかと勝手に解釈していた。フト、機会があって、プライベートとは1等兵ということを知った。まことに浅学と思い知らされた、はずみに、最後のシーンかなりご都合主義だなとの思いが生じた。
 映画は先ず娯楽である。テーマの面白さを満喫すればよいのだ。1−2時間別世界で、手際よく素早い展開に紛れ奇跡が起きて、ホットすればそれで良いと思う。何をぐずぐずアラ探しをするのか、自分の性分に少々嫌気がする。

         2015-6-30













     映画 フューリーによせて 2  大幡  

       フューリー、 ステイーブン・ハンター極大射程

             


  フューリとは極小人数で大敵をたおすお話である。Sハンター著「極大射程」の主人公スワガーはスナイパーで極大射程の極め付きの射手であり、銃の取り扱いについてこれまた究極の腕を持ち、留守をするときに愛する銃に特別の手を加えるのを常としている。
 この事によりスワガーが或る暗殺事件の被疑者として追い詰められた時に、有力な反証となる、というのが大筋である。が、この話の曲折に散りばめられ巧妙精緻な道具立て、これほどおもしろいミステリーはないと思う。

 読んでから数年、映画になり即刻見た。チットモ面白くない。あの場面はどうしたの、こんな筈はない、カットカットの連続、あそこの脱出はどうする。どんな映像になるの、期待外れの山積みである。よく考えてみると、原作を忠実に再現するには、制約のない文字の表現力、タッタ数行の文章や数個の語句が読者に無限の拡がりを与える。文字に較べ映像には100倍の情報があると一般に云われるが、反って、文字を映像に変換するには100倍以上のエネルギーが要るであろう。カット話の整理必然のことである。読者の勝手なイメージにつきあっていられない。

 フューリーの場合だって、原作にどこまで忠実であろうとしたか、読んでない立場では何とも言えない。トーチカ状態に擱座するまでがテーマであれば、終局の大団円少々手を抜いても許されるであろう。

 極大射程も、1本の映画に盛り込むには本来無理な原作であろう。原作を知らなければ、これで結構楽しい絵に違いない。気楽にその場限りを楽しめばよかったのだ。
 こんなタドタドしい論議をしたいのではない、辛抱して次につきあっていただきたい。
 これからの話はスワガの生涯をさかのぼり、ヴェトナム戦にスナイパーとして従軍した「狩りのとき」の話である。

 本来スナイパーははるか彼方の目標に集中する。その間身辺には全く無防備になり、目に入るのはレンズの1点に限られる。着弾点の広域な観測、同じ一人には不可能である。そこで、一人の助手が不可欠である。それをスポンダーと呼ぶが二人一組がスナイパーの宿命である。

 戦場はヴェトナム、南側の崩壊を間近にして、前線の奥深く取り残された小部隊、之を撃滅しようとするヴェトナム軍、規模は数百人、改めて読み返して見たが、ハッキリしない。指揮官に佐官の表現がある。小部隊の救出にスワガーが立ち向かう、スポンダーを従えて。 敵陣で異変が起る、浅い霧が立ち込める中、散開する小部隊毎バタバタと兵士が倒れる、しかも、指揮官や通信員と幹部に集中して起こる。前線は膠着混乱して隊伍が崩れる、しかし、ようやくスナイパーと気がつき、残された隊長により、スワガーのひそむと思われる岡の側面に斥候隊が向けられる。きわどい応酬があって彼は手ひどい傷を負い、今は之までと意識の薄れる場面に。

 Sハンター(著者)両軍に公平しかも詳細かつ考慮深い行動をとらせている、間が抜けていない。しかし最後は都合よく友軍である、この助けの必然についての書き込みを読み落としたのか、読み直す。さすがハンター、友軍の陣営fで、遠くの銃声しかも機銃でなく数発ごとの発射音から、スナイパー特に伝説とまでなっているスワガーと断定し、側面擁護の要ありとの判断、うまいこと数行の仕掛けがあった。
 この小文メデタシ目出度しである。「極大射程」是非とも読んでと、誰にともなくすすめる。いや、狙い撃ちで!


         2015-7-2

  












  ミッドウエイ トリビア   大幡  

         ジョン・フォード、ヒコポンタスを追って

  
           
           訓練空母 ウオルバリン  外輪船


昭和17−18年頃、小生中学2年生「海と空」仲間が長門だ、加賀だと話しているところに、なじみのないクラスメートがやってきて「お前ら赤城も加賀も沈んだんだぞ、ミッドウエイで」と語調強く割り込んできた。「そんなことあるもんか、デマに定まってら」と言い返したが、彼は鼻先でフンとあしらうようにして去っていった。腹の中で何も知らないでとセセラ笑っていたのだろう。この話、終戦まで再度聞くことはなかった。又、敗北を認めたくなく、意図的に避けていたのかもしれない。話は空母4隻の喪失ではなく、この海戦にまつわるトリビアである。

 珊瑚海、ミッドウエイの航空戦で、100機前後の米軍機が撃墜され、多くの搭乗員が海上を漂い、数名が日本軍に収容され捕虜尋問にかけられた。厳しい調べはその所属する空母に及び、「ウオルバリン」と返ってきたが、当時の正式空母にこんな艦名はない。米軍では、捕虜になっても軍機に関しては秘匿するのが義務となっている、この点、日本兵はなかなか捕虜にならないが、なると、少々情けをかけられるにつれボロボロと供述すると言われる、その時の心構えも訓練されていなかった、間抜けな話である。
  米軍捕虜したたかである、が、その折の日本側取調官その上をいく腕利きである。米国駐在武官時の情報活動から、ウオルバリンが練習空母であることを知っていた、即座に問い詰めその後の調べがすすんだという。

 一方、アメリカでは開戦後、戦意高揚を期待してジョン・フォード監督により、ハワイ、ミッドウエイと2本の記録映画が作られた。ミッドウエイでは景気の良い4隻撃沈には全く触れることなく、荒涼として何もなく平坦な島の風景と、連日の海上捜索が延々と続く。誠に地味で何が戦意高揚かと思ったが、これがアメリカである。撃墜された海上を漂流する戦闘員に之程力を入れている。これが国民の琴線にふれるのだ。実際に2週間ほどの間に何人かが救助された。10数年前に見たが今回この小文に取り上げて始めて気が付いた。どうも民主主義にはなじめない性分なのかな。

 この映画、渋谷の単館上映専門館で、ジョン・フォード週間として見たが、その折」更に「周遊する巡航船」を併せて見た。ミシシッピ河を上下する船上で、主人公がある裁判に関わり、出頭期日に迫られ船の速力を上げるため、商品として携行していた「ヒコポンタス」をガラス瓶のまままボイラーにほうりこんだ。何か化粧品のようでアルコール度が高いのか、船尾ににある外輪が勢いを増しめでたくゴールイン。勝訴してThe Endである。

  さらに例のクセがでる。ガラス瓶に入ったままでよくぞ燃えたものだと、そして別の話を思い出した。 ラ・プラタ河沖のことアドミラル・グラーウ・シュペーを追いかけて、イギリスの巡洋艦エグゼター、燃えるものならなんでもと、グランドピアノをタタキ壊して缶に放り込んで、性能以上の速度が出て追いつき砲撃する、シュペーはたまらずモンテ・ヴィデオ港に逃げこんで、あげくに自沈に至る。
  ここで、軍艦にピアノを積んでいるのか、ピアノ1台くらいの木材で足しになるのか、また、重油専燃でしょどうやってどこに木材を入れたの、ボイラーに焚口なんか無いでしょ。ウソつくな、バチがあたるぞ。当にスラバヤ沖海戦で罰を受け日本海軍より海の藻屑と消され、仇を討ったと我が国の新聞紙上を賑わした。


      
      スラバヤ沖海戦で撃沈されたエグゼター


  話を巡航船上の「ヒコポンタス」戻す、強く記憶に残っていた、数年して、映画「ノッチングヒルの恋人」で[ヒコポンタス」にめぐりあった。ジュリア・ロバーツ扮する人気女優と,市井の本屋主人しがない青年との恋の出会いである。色々あって最後に決着をつけるため、おしのびでジュリアが泊まったホテルフロントで面会人との合鍵、符帳としてヒコポンタスが使われ、之が役立ってハッピーエンドとなる。 小生にとっては巡航船以来数年ぶりの再会であるが、2本の製作年度には半世紀以上の開きがあるう。この言葉アメリカ人にとってかなりなじみの深いのかと思われる。
 機会があって生粋のアメリカ人にどういう意味か尋ねたが、意外にも全く知らないと、益々探求心が深かまった。

 練習空母に戻る、太平洋戦争が始まって航空母艦の重要性が高まり、米海軍では大量建造となり、同一艦艦50隻を1年間で作ることになり「週刊空母」とまで言いわれた。船は工業力に伴ってドンドン出来るが、搭乗員には問題あり、自動車王国であり飛行機乗りは順調に育ったが、母艦乗りとなると容易ではない、動かない大地と航空母艦では大違いである。数少ない母艦を前線から引き戻して練習にあてる訳にはいかない。母艦はできても搭乗員がいない状況になった。
  ここに、五大湖に浮かぶ外輪船を改造する話が持ち上がった。観光専門の「シーアンドビー」を買収、改造して「ウオルバリン」と名付けられた。
  フラットな船型、飛行甲板は容易に取り付けられ、16ノット出せる外輪も支障なく甲板下におさまる、只エンジンは石炭を燃料とし、重油専燃の海軍には要員がいない、取り換え論も出たが戦況が許さない、止む終えずそのままいこうと、周辺整備をし要員は民間人で、燃料はカロリーの高いヒコポンタス炭でとなった。ヒコポンタスの再登場である、石炭は発熱量から無煙炭、瀝青炭、亜瀝青炭、褐炭との区分があるが、ヒコポンタス炭とは炭鉱名ではないかと思われる。
  波静かな内陸湖、敵襲もなく訓練にもってこいである。母船としての甲板、16ノットの速力、他はいらない練習機は発着艦するだけである。格納庫もエレベーターもない、改めて装備されたのは給油装置と着船用の制動ワイヤーのみである。たちまち開戦の翌年1942年8月末に就役した。 しかし、艦船は定期的にドック入りの要有ありローテーションを考えてもう1隻が欲しい、次いで姉妹艦としてセイブルが装備され2隻体制となり、終戦までフル稼働して、空母のパイロット有資格者1万8720人を養成した。この中に43年18歳の若者がいた、その名はジョージ・H・W・ブッシュ、後の第41代アメリカ大統領である。戦争が終わると役割が無くなり即退役解体となった。先勝の大きな要因とたたえられるに比べうら寂しい運命であった。「歴史群像」 07-2より、
 
  ヒコポンタス何者か依然としてわからない。 或る日思い立って、地元鴻巣でも辺境の川里図書館を、それほど期待せずに、只ミリタリー系雑誌の所蔵を頼りに訪れることにした。ドンヨリとした小雨降るなか、たった1人の相客とコミュニテイバスで向かった。まわりにモヤがかってくる、見渡してさえぎるものがない、タンボの水面が取り巻いている、一瞬ミッドウエイを漂流する搭乗員もかくやと思った。やがて図書館に到着、早速雑誌コーナーに行くが目当てのものがない、書司がバックナンバーはというと世界の艦船1冊を出してきた、之だけかと尋ねるとすべて貸し出されていますとのこと、軽い失望感を憶えたが、同好の士が多いのに感じ入ると共に、ヒコポンタスに導かれるように関係コーナーに行き、船関係に当たり多少の獲物があったが、歴史関係に進むと「アメリカ有名人100人」に行きあたった。関連をコピーする。  ヒコポンタスはヴァージニア地方初期の歴史上有名なアメリカ・インデイアン首長ポウハタンの娘である。 ポーハタンと言えば明治維新の頃、こんな名の船があった筈と次の疑問が生じたが、これはさておいて、彼女は容姿端麗に生まれ、故あって英語を取得、初期英国から入植した人達のジェームスタウンと、これを取り巻くインデイアン達の仲立ちに大きな功績があったとのこと。ジュリアロバーツと本屋の青年、著しい環境の差に余りにもピッタリの符牒ではないかと感じいった。特に、彼女は白人と結婚した最初のインデイアンとされている。 小生ポカホンタスに導かれて、川里のr地で謎解きに成功した。しかし、ポーハタンの謎が残った。

                       
                           ?

       2015-8-12


   










           ミッドウエイ2   

                  大幡     

      8月中旬の朝、ねぼけ眼でテレビのスイッチを入れる。澤地久子の語るミッドウエイ海戦における日米双方戦死者3,419人の話である。 これを表にすると、


           搭乗員   乗艦員    合計  
  日本       121    2936     3057
  アメリカ     208     154      362
                          3419

 女史は、戦場で倒れた1人1人の陰に秘められた女性に光を当て、独特の戦記物で一時代を築いたが、徹底した実態調査に裏付けされ、それで多くの読者の支持を得たのであろう。

 番組の中で、戦死者3419名(日米双方)のすべてを調べ、個別ファイルを整理した大きな書架が紹介される。 1980−81年の1年余をかけ、資料整理にコンピューターを駆使し、まだPCのよく普及しない時期、プログラム作りから始め、銀行の負債が7千万円を越える時もあったという。

 さて、表の数字をたどっていくと多くの事が判明する。先ず、搭乗員の数だが、日米の比がほぼ1対2であるに対して、空母の喪失4対1との逆比例は、ドーントレスの出現前に、如何に多くの米軍機が撃墜されたか、また、ゼロ戦による防御が有効であったか、惜しむらくは低空に集中しすぎ、上空の配備が手薄であったかを示す。

 又、乗艦員の数を見ると

         戦死者    喪失艦   1隻当たり
 日本      2936       5      587
 アメリカ     154       2       77

 戦死者の比が20対1となる。いかにすさまじい敗戦であったか、少し立ち入って一艦当たりをみると、8対1であり、空母3隻の轟沈を如実に物語っている。

           

 澤地著「家族の樹・ミッドウエイ海戦・終章」を見ると、日本の死者の中には海上を漂流し、友軍の姿を見せながら見捨てられた多くの人が居る。一方、米軍に助けられたものも居る。さきの、ミッドウエイ、J・フォードでふれた如く、2週間以上の精密な探索活動に比べ、敗軍の情景が哀れである。

 女史はアメリカの個々の家族を訪ね、アーリントン墓地のH地区を訪れている。ここは遺骨の還らなかった400余の人が集められている。その中に、ミッドウエイに没したレイモンド・サルザロス、右真横にその息子が居る、いずれも航空兵である。息子はベトナムに没した。墓碑(マーカー)に次のように刻まれているい。


  レイモンド・サルザロス  1913-1942  (29歳)
    同     JR     1942-1966  (24歳)
                 注(  )は小生加記

 父の没年と息子の誕生が同年である。息子の顔を見ることがなかったし、息子は親の年を越えることはなかったのか、すさまじい家族の歴史である。

 女史は、親子2代にわたる戦死者につい、日本は数百万の戦死者がいるが、只の1人として親子2代ということは全くないと強調して、平和憲法に触れたが、小生としては憲法がためでなく、東西冷戦という僥倖あってとのみ考える。

 後日談だが、息子の消息はベトナムとの平和協定の成立で、遺骨が帰った為父親とは別の区画に移ることになったという、親子再びの別離である。

 父はハワイ、ヒッカム飛行場を出撃したB-17に搭乗し未帰還となった。果たしてゼロ戦の餌食となったのか疑問が残る。


            2015-9-18










         タンネンベルク殲滅戦と虚像ヒンデンブルグ

                             大幡   

           
           ヒンデンブルグ 

 第1次世界大戦当初、ドイツ東部戦線でロシア第1軍レンネンカンプの突出により、ドイツ第8方面軍が壊走して戦線が崩壊する危機が生じ、ドイツ参謀長小モルトケは軍団長プリットウイッツを解任、西部戦線より2個軍を振り向けると共に、代役として退役中のヒンデンブルグ(H)に加え、参謀長ルーデンドルフ(L)を差し向けた。

   
   ルーデンドルフ

 H・Lコンビは敗走する戦線を立て直し、露レンネンカンプの進撃もここまでと見なし、薄い防衛線で対処、残る全軍でサムソーノフの露第2軍に対応、知り尽くした地形を利用して各個撃破し、西部戦線からの援軍到着前に、露第2軍を包囲殲滅し鮮やかな戦果をあげ、ヒンデンブルグは再召集の途上で作戦を思いついた等、数々の伝説を生み国民的英雄として、戦後大統領にまでかつぎあげられた。


    


 余談だが、後々にしぶしぶではあるがヒットラーを首相に指名するという、芳しくない運命が待ち受けていた。

 このような伝説に、敗走する方面軍をどうやって、しかも短時日にまとめあげたのか長い間疑問としていたが、雑誌歴史群像98年36号タンネンブルク殲滅戦の記事により氷解した。その実情を以下に列挙する。


    ロシア側では

・ 苦境に陥入った同盟国フランスの強い要請があって、動員予定を繰り上げて攻撃態勢に入った。

・ 露レンネンカンプは1個軍団を壊走させたが、独フランソワ軍団の動きにまどわされ、第2軍との連携作戦をとらなかった。
  
   レンネンカンプ  ロシア北西戦線第1軍司令官

・ 本来、ロシア軍は後退しての焦土作戦を、ナポレオン以来の伝統とし、敵国に深く侵入する場合の補給体制を殆ど持っていなかった。

・ 露サムソーノフの第2軍はより一層深刻であった。既存の2個軍団が沼沢地深く突出し、残る新編成の2個軍団は小銃も充分にいきわたらないまま、バラバラに先の軍団を追いかけた。ここへ病気休養後のサムソーノフが新任され、殆どの幹部が初見という状態であった。軍をまとめるのに手一杯で、作戦を立てる余裕等全くなかった。
  
   サムソーノフ ロシア第2軍司令官

・ ロシア軍はわずかなトラックしか持たず、突出した2軍団は、終末、ドイツ軍との遭遇時には2日間全く食事をとっていなかった。
・ ロシア軍は通信力も貧弱で、一部では傍聴可能な無線が使用され、暗号員も不足して平文で通信し、作戦がドイツ軍に筒抜けであった。

 一方 ドイツ側では

・ 独第8方面軍軍の主力が露レンネンカンプ軍により撃破されたが、25q下がった線で踏みとどまって戦線を再構築した。
・ 一部の独フランソワ軍は待機命令を無視して、ロシア軍の後方に突出し、その補給線を寸断し露レンネンカンプに後方の不安感を与え、更なる追撃を思い止まらせた。
・ 独第8方面軍団長プリットウイッツは、露第2軍が南方に現れるとの報に包囲されるのではとパニックを起こし、ホフマン参謀の反対を押し切り、ヴィスラ河までの後退を参謀本部に直訴した。

                  
                      独第8方面軍 プリットウィッツ

・ 独参謀長小モルトケは前線の軍団長毎に直接問い合わせ、それほどの状況ではないと確信、大胆で強い決断力のあるリーダーとしてルーデンドルフと、大軍を統括するのにふさわしい貴族フォンの称号のあるヒンデンブルグを起用して、プリットウイッツを解任した。
・ ホフマンはH・L2人の着任前に戦線を後退整備し、ロシア第1と2軍の連携不十分を見越して各個撃破のため、先ず第2軍に主力振り向ける準備をした。

       
       ホフマン 独第8方面軍参謀

・ ここで又してもフランソワ軍団は待機命令に反して第2軍の後方深く前進した。

 このような状況にH・Lコンビが着任、ホフマンの作戦を承認し、発令した。 正にタナボタ式に成果を得たように見えるが、実際決断するには深い思考と勇気ある決断力が必要で、その実力を伴ってのことであろう。

 この作戦の結果は、ロシア第2軍の20万の損耗率は75%に達し、第1軍も半ば近い損耗を受け国境の彼方に後退し、以後ロシア軍は一方的に敗退を重ね、やがて革命により第1次大戦の戦列を離れることになった。
 しかし、タンネンベルクの戦いは、ドイツにとって戦術的大勝利であったが、2個軍を引き抜かれた西部戦線では勝機を逸しやがて全面的な敗戦につながり、戦略的には大きな敗因となったと云える。

 雑誌歴史群像の前に、ソルジェニツインの1914年8月でタンネルベン戦に出会っていたが、そこでサムソーノフ第2軍が一方的に敗走する様が微に入り細を穿って書かれるだけで、ドイツ側の記述や、レンネルカンプのその後も殆ど触れていない。 ノーベル賞に輝く大作家だが月ごとにロシア史を描くのだというには、少々片手落ちの歴史ではないか、月を冠してのその後の著作にも出会っていない。小生の浅学故かもしれないが疑問が残る。

 しかし、第1次大戦、東部戦線の中央部。対オーストリア戦線について歴史群像に伴せてポーランド史でかなりの知見を得た。望外の幸せである。


           2015-10-22











     映画 ベルファスト71 を見て   大幡

     民族浄化・過激派テロ行為の祖         

  
         


  この映画は、北アイルランドの英王国への帰属に加えて、本国によるプロテスタントの優遇政策もあり、住民がカトリックとプロテスタントの2派に分かれた争いを背景にしている。 蛇足ながらベルファストは北アイルランドの首都であり、71は1971年の略である。
 
 アイルランドを舞台にした「フィオナの海」 「ケス」 「麦の穂をゆらす風」 「スカートをひるがえす風」 等多くの映画があるが、いずれも豊かな風景に加え、永い忍従の歴史と物悲しい民族の息吹に満ち満ちている。

 余談だが、「麦の穂をゆらす風」では、情報を漏らしたことで叔父が甥をピストルで処刑する、身内ゆえに辛い苦渋の表情が忘れられない。
 又、「スカートをひるがえす風」 では第2次大戦下、不時着したドイツ兵と同じ様なイギリス兵が席を同じくする場面があり、イギリス兵はまもなく送還される。 戦後チャーチルはアイルランドの中立を苦々しい思いをこめてなじったという。

 さらに余談だが、風情の全く違う映画がある。 J・フォード監督J・ウエイン主演の「静かなる男」 、延々と続くビクター・マクラグレンとのなぐりあい、と共に赤毛のモーリン・オハラはアイルランド女そのもので、何度見てもあきないがアメリカ映画である。

 アイルランドの歴史にはどこかなじまない。しかし、そのロケ地は有数の観光地となって、里帰りのアメリカ人を引き寄せている。

 アイルランド島はヨーロッパで最後にキリスト教化され1937年ヨーロッパ最新参の独立国である。もっとも、冷戦によるソ連崩壊後、バルカンでの合掌連衡を除いての話であるが。
 この独立に際して、分離を支持・反対の両派に分かれ激しい抗争があって、反対派が北アイルランドに押し込まれ独自の憲法をもった自治領の、2か国体制になった。
                            
       国土  成立年  首都      カトリック  プロテスタント
 共和国  4/5   1939  ダブリン      94%      4%
 自治領  1/5   1971  ベルファスト    30%     55%

  注) %は住民比であり、自治領の100%未満は無効票14%がある

 独立前、ダブリン周辺は工業が発達して、多くのプロテスタントが居住していた。 今は居ない、いかに激しい民族浄化の争いがあったかと思われる。また、自治領の都市部では、両派の居住区はハッキリ分離され、混住していない。

 映画は、カトリック、プロテスタントがそれぞれ硬軟両派に分かれ、これらの調停役として駐屯するイギリス軍も、諜報機関が独自に地下組織を持ち、しかもその長が正規軍の司令官よりも上位である。更に、IRAがカトリック過激派の資金源として加担している。
 そもそもIRAは独立後用済みのはずだが、それ以降も存続するには、アメリカに移民した人々の故国へのゆがんだ郷愁故のことで、TVコロンボにこの辺りの情景が登場した。

 映画は、治安警察活動中の1兵士が部隊行動から外れただ1人残され、イギリス兵と分かれば命の保証がない、誰が敵で味方かが分からない極限状況で右往左往する。
 映画の約束で、辛うじて生き延びる、しかもどの会派かの要人を殺害した上で、まことにすさまじい活劇である。チャンバラ好きにはこの上ない満足感を与えるだろうが、多くの観客は何が何やらサッパリ分からぬ内に、THE ENDの映画ではないか。

 バルカンを経て、中東でISISに至る過激派行動はアイルランドに始まったのではないか。キリスト教、イスラム教の進度の差が無法性と、残忍度に表れている。


          2015-10-9










      B-29誕生物語とB-15,B17 大幡 



 ローマは1日にして成らずというのが、ボーイング社は今日世界の旅客機の大半を占める巨大なメーカーに成長したが、その飛躍の最大の成因は4000機と云われるB-29である。

 B-29の前にはB-17がその前にはB-15があり、更にさかのぼると、1916年太平洋岸シアトルで、ウイリアム・ボーイングとコンラッド・ウエスターヴェルトの2人が、水上飛行艇による初の沿岸航空便を成功させたことに始まり、1928年航空機設計者として名を成したチャンス・ヴォートを加え、ボーイング航空輸送会社を設立した。その後、多くの同業者を合併吸収したが、独占禁止法により解体され、ボーイングは全株式を放出、製造部門はシアトルに集約して、現在のボーイング社となった。  

  (余談だが、) チャンス・ヴォートは1931年’昭和6年)航空機メーカーを創立、この会社からグラマンF6Fと並んで、ゼロ戦の強敵となった、F4Uコルセアが生み出された。


     
      B−15  試作1機のみ

 さて、B−15だが、この機体は試作のみに終わったが、「映画テストパイロット」の主題となり、レイ・ミランド、ヴェロニカ・レイク主演で戦前に作られ、戦後、本邦初公開時池袋の映画館で見た。物語はテスト飛行に失敗して機体が失われるが、主人公が奇跡的に生還するというあらすじであり、細かいことは全く覚えていない。

  その機体はB-17より一回り大きく、分厚く広い主翼の4発機で、見るからに鈍重で成功作とは云えない、しかし、之がB-17に活かされ、ボ−イング社が多発機の世界躍進のキッカケになったのは間違いない。

  ヨーロッパ戦線のイギリスには、アブロ・ランカスターとショ−ト・スターリング・ハリファクスという2つの4発爆撃機があり、アメリカ参戦までは大いに活躍したがその後、多数のB-17が貸与され、両機を押しのけてB-17がイギリス空軍の主役となった。

  B-17まことに頑丈である。フライング・フォートレスその名前どうり欧州戦線で最も多く活躍した爆撃機である。尾翼の半分をもがれたり機首のほとんどを失っても帰着する等多くの戦例がある。


 
 ザックリと後部が切り裂かれている

 
 
  機首部分が破損している


   映画「メンフィスビルの鐘」に登場、まざまざとその勇姿と奇跡の生還を見せつける。又、そのフライング・フォートレスという名称は、この頑丈さではなく、洋上はるか進出する沿岸砲台という意味である。しかも、多くの機体が悪意ある「ウイドウメーカー」「マーダー」等と冠せられるなか、B-17に限り「クイーン」とまで呼ばれた。
 この頑丈さがB-29に引き継がれた。


                              


  B-29はB-17が完成後まもなく1938年ごろから構想されて、もちろん、対日戦など毛頭なかった。米陸軍航空隊も、ヨーロッパに台頭したナチス政権をにらんでだが、ハッキリした構想を描けないまま、巨額になる4発機に対して、双発機を多く揃えた方が有利との考え方もあった。急迫するヨーロッパ情勢に押されて、将来の爆撃機としての試案を求めることになった。

  ボーイングの外グラマン・ロキード・コンソリデーテッドの各社が応じた。他社の双発機に対してボーイングは4発機で応じた。ヨーロッパ戦線の考察から、防衛装甲・防御火器の強化・自動防漏タンク等追加仕様が要求され、4発機の余裕からコンソリデーテッドB-32Xと並んでB-29が試作されることになった。しかも旅客機に於ける与圧機能の実績から、B-29が主役、B-32XはB-29が失敗した時の控えに止まった。

 (余談だが)控えのコンソリデーテッドB-32Xについて、その要目、写真を見たことがない、全て計画のみの存在なのか小生にとって一切不明である。

        
         B-32 ドミネーター  コンベア社115機生産


  B-17・29のシルエット図を見て分かるが、その細い主翼から察せられるように、翼面荷重は337kg/uに対し、B-17のそれは166s/uで、ほぼ2倍である。従って高速が得られる反面、離着陸が困難になる。その対策として、翼面の20%にあたるフォ−ル・フラップで対応した。エンジンもプロペラも破格の大きさであり、与圧室により成層圏飛行も容易である。入念な模型実験等により筋金入りとなり、1941年3機が試作発注れ、完成予定は42年8月とされた。

                 
                 B-29とB-17

 当時、ボーイング社はB-17の他ノースアメリカンB-25の生産分担まで求められているなか、完成には程遠い試作段階にも拘わらず、250機30億ドル量産が発注された。ここで12月8日の開戦をを迎え、更に250機が追加発注された。しかも、試作機を屋内で全組み立てする能力さえ無かった。それ程B-29は大きかったが、たちまち量産工場が立ち上がる程アメリカの工業力が巨大であった。

  この工業力の奥深さを、戦前アメリカを見て回った日本の軍関係者は大きいとは認識していたとしても、ここまでとは産業人も含めて見通せなかったし、又試作段階で500機を発注する軍首脳の洞察力・決断力は並々のものではない。工業力の差よりも人間力の差の方が大きかったのではないか。

 追記すると、B-29は累計4000機を越えたが、ボ−イング社はヨーロッパ戦線向けのB-17の多量生産を並行して行っていたので、全てボ−イング社のみではなく、マーテイン社・ライト社等も加わってのことである。ヨーロッパ戦線の進展もあり、B-29は対日戦用となり、昭和19年6月19日、成都発八幡製鉄所初爆撃となった。


          2015-12-9












      B-29・勤労動員・伝単  大幡

       勤労動員学生の見た・働いた 敗戦までの風景

             
 

          


  戦時下の中学では遠足の代わりに野外教練が実施され。1年に軽井沢・2年には富士登山を伴う御殿場と、軍の設営した演習場での2−3泊の催しがあった。しかし、昭和19年になるとこれに代わって勤労動員が待ち構えていた。

それは、重要施設の延焼防止のため近接する木造住宅を強制撤去し、その跡地の整地・整理に駆り出されて、荒川区の王子製紙近くに行ったのが始まりだった。自宅近くで1階の壁を取り払い、むき出しの柱に鋸を入れ、2階にロープかけ、何人かで引き倒し、残された木片を燃料として持ち帰った憶えがある。

 やがて、工場勤務として板橋区の凸版印刷に数か月通った。そこには巣鴨から志村行の市電にのり終点辺りである。同学年の別のグループは近くの金門製作所(ガスメーターで知られる)に配属され、機雷を作っているときいたが、こちらでは紙と鉛の活字に囲まれ、戦争の雰囲気は全くしなかった。

 続いて、赤羽駅から徒歩20分程、隅田川沿いの理研金属工業に配置替えになった。ここでは機関砲に装填される弾体ケース付属品運弾板の部品をヤスリ仕上げするのが作業の中心だった。 3月10日過ぎ川に面した工場から水面が見え、10体余りの土佐衛門がただよっている。黒焦げで着衣もなくガスが溜まってふくれあがっていた。余り驚きもなく、日が代わって又数体来ても無心に眺めていたマヒしていたのであろう。悪童と語らって焼け跡を見に行こうと、工場を抜け出し東十条駅に行ったが、切符が統制されていて思いを果たせなかった。後に通勤定期があり無礼覚悟で車内から望見する丈でもとホゾをかんだ。


         



  下って、4月14日頃板橋地区がやられ、住居の目白から池袋までは行けたが、赤羽線が全線不通で線路上を板橋に向かうと、途中山手線車庫でかなりの車両が全焼して骨組みだけになっていた。板橋駅に差しかかると、貨物線に点々とウンコの山が築かれてういた。恐らく軍用列車がP-51等の機銃掃射を避けて、B-29の空襲前に無事発車いずれかに向かったのであろう。構内倉庫は半焼け状態で、黒焦げの山であった。近寄ると火に当たり膨れ上がったカンズメが散乱している。夢中でカバン一杯ひろい集め食料不足の折から、勇んでそのまま帰宅したと思われる。
  5月29日工場に居た、昼頃である、隅田川下流の方面黒雲がもくもく上がり、横浜が全滅した。

  6月勤務先が、下流北千住の東京製鉄に移った。敗戦間際の配属の吾々に、鋼の特性についてマルテンサイト・オーステナイト等の講義があった、のどかなものである。仕事は体格の大きいものが、小型ロール(圧延機)に配属され、赤く熱したビレットを金火箸でつまみ、ロ-ルの小孔に差し込むという荒っぽく、かつ危険な作業で戦中とはいえ、15-16才の子供がよくやったと思う。小生等小さいものは構内の雑用にふられ、平炉工場の鉱砕片・レンガ等を小運搬した。

  8月、工場の片隅で広島に落とされたのはウラニウム爆弾だ、マッチ箱程度の大きさで戦艦を真っ二つにする等ダベっていた。余り仕事が無かったようであり、空襲警報が鳴ったが、大したことはないだろうと話を続けていた。フト見上げるとB-29単体の飛行機雲が見え、しばらくして黒い爆弾様のものが向かってくる、ハッキリと視認した。もしも爆弾であったらこの文章は存在しない筈、奴は近接して破裂、空中に白い雲が生じた、伝単である。しかも数メートル先に伝単ケースの重りが落下した。続いて伝単が花ビラのように舞い散った。伝単初見ではない、6月ごろに、沖縄戦で台風が吹き荒れ、米軍を蹴散らして正に神風という風聞があった。之に対応するかのように、B4程のア-ト紙に新聞記事として、台風の記事とささいな被害であったと記されていた。鮮烈な伝単の記憶がある。これら禁止されていたが、隠して持ち帰り、戦争記念として保存していたが、いつの間にか散逸してしまった、残念至極である。


          


  まもなく敗戦となった。8月16−17日の事、椎名町(板橋区)の住居から近くの焼け野原、双発の友軍機が」やってきて、低空から伝単が降ってきた、ザラ紙に謄写版刷りはがき大のものだった。走り書き数行、徹底抗戦の趣旨だった。厚木航空隊・園田一味の仕業と後で知った。その伝単も今は無い。


            2016-1-10













     B-29 東京焼尽  3月10日 内田百聞  準備中