速魚の船中発策ブログ まとめ







海援隊士・亀山社中

龍馬の船

長崎の龍馬支援者たち

小曾根英四郎

大浦慶

伊藤助太夫

溝淵広之允

菅野覚兵衛・千屋寅之助

龍馬の蝦夷地視察

坂本龍馬と近江商人
































































































































































































































































































































































海援隊士・亀山社中

龍馬の船

長崎の龍馬支援者たち

小曾根英四郎

大浦慶

伊藤助太夫


溝淵広之允

菅野覚兵衛・千屋寅之助

龍馬の蝦夷地視察

坂本龍馬と近江商人








































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































海援隊士・亀山社中

龍馬の船

長崎の龍馬支援者たち

小曾根英四郎

大浦慶

伊藤助太夫


溝淵広之允

菅野覚兵衛・千屋寅之助

龍馬の蝦夷地視察

坂本龍馬と近江商人




























































































































































































































































































坂本龍馬 まとめ










   海援隊士・亀山社中  



左から長岡謙吉、溝渕広之允、龍馬、山本洪堂、菅野覚兵衛・千屋寅之助、白峰駿馬


1. 土佐
          


 坂本龍馬 1836-1867 海援隊隊長。



o沢村惣之丞 1843-1868 土佐勤皇党、勝海舟門下、天満屋事件、長崎奉行所占拠の時薩摩藩士を誤殺して切腹



o佐々木高行 1830-1910 上士。、戊辰戦争において海援隊の指揮を執った。龍馬死後は戦闘面では実質的に二代目の隊長であった。長崎奉行所占拠、浦上四番崩れに関わる、法務関係に携わる。天皇親政運動に動く、工部卿、宮中顧問、侯爵



o長岡謙吉 1834-1872 海援隊の事務全般を執り行い、龍馬の死後は二代目の隊長となる。土佐藩の医者の家出身で鳴滝塾にてシーボルトに医学を学んだ経歴を持つ。小豆島を占拠、維新後は三河県知事。

         

o石田英吉 1839-1901医師の家に生まれ緒方洪庵に師事し、医術を学んだ経歴を持つ。天誅組、禁門の変、七卿落ち、奇兵隊創設に貢献、ユニオン号指揮で小倉口の戦い、維新後は秋田県令・千葉県知事はじめ、多くの県知事職を歴任。海援隊時代の同士であった陸奥宗光が農商務大臣になったとき次官に招かれ、陸奥を補佐した。長岡とともに逸材とされ、「二吉」と賞される。男爵


     
o坂本直(高松太郎) 1842-1898 龍馬の甥であり、子のなかった龍馬の家を継ぎ坂本直と改名した。海軍操練所、クリスチャン、
         


o菅野覚兵衛1842-1893 (千屋寅之助) 土佐で庄屋業をしていた。土佐勤皇党、神戸海軍操練所、ユニオン号艦長で小倉口に参戦、維新後に米国留学、お龍の妹が妻、維新後海軍少佐。西南戦争時には薩摩に滞在していた。北海道開拓移住。


o新宮馬之助 1836-1886 龍馬の近所で生まれ、幼馴染。龍馬の姉乙女宛ての手紙に頻繁に名前が出てくる。維新後は海兵団に所属、海軍大尉。


o池内蔵太[1] 1841-1866 土佐勤皇党、長州遊撃隊参謀、天誅組、禁門の変、ワイルウエフ号遭難で死亡、龍馬が後継者として期待した。
         

o安岡金馬  生没不明、
           

o野村維章(野村辰太郎) 1844-1903 土佐藩白札格出身で砲術教授役をしていた。太極丸船長、長崎奉行所占拠、振遠隊として戊辰戦争に従軍、明治維新後は佐賀県権参事・参事を歴任後、初代茨城県令に就任。その後、控訴院検事を歴任し、東京控訴院検事長・大阪控訴院検事長。男爵

         

o中島信行(中島作太郎) 1846-1899  土佐の郷士。土佐勤皇、長州遊撃隊、維新後、板垣退助とともに自由民権運動を指導した。初代衆議院議長。男爵

         

o近藤長次郎 1838-1866 生家は龍馬の家の近くで饅頭屋をやっていた。薩長同盟の時には伊藤博文・井上馨とともに長州藩の軍艦兵器の買い付けに多大な功績があった。長州藩の勧めで英国留学する予定であったが他の同士から脱退をとがめられ、自刃した。


o吉井源馬  生没不明、


o坂本清次郎(三好清明) 1842-1903 龍馬の親戚。龍馬の妹・春猪と結婚、維新後鎌田家を継ぐ、自由民権運動に参加。三好に改名


"2. 越前
         


o関義臣(山本龍二) 1839-1918 福井藩士。維新後、大阪府権判事、鳥取県権令、大審院検事、徳島県知事、山形県知事、貴族院議員等を歴任。男爵

    

o渡辺剛八(越前藩) 生没不明、 いろは丸機関方、振遠隊で奥羽転戦



o山本洪堂(復輔、洪輔) 1842-1899 福井藩医師山本宗平の次男。松本良順門下。長崎奉行所占拠、開拓使医官、大阪精神病院の院長を務めた。息子宗一の後を継いだ、親戚の子供友香は山本病院の初代院長となった。


o三上太郎  生没不明


o小谷耕蔵  生没不明、 いろは丸船長 隊内で佐幕派


o腰越次郎  生没不明、


o佐々木栄  生没不明、


"3. 越後
     


o白峰駿馬 - 長岡藩士。太極丸船将、維新後、留学し造船術を学ぶ。帰国後、造船所を経営。


o橋本久太夫  生没不明、元幕府船員、桜島丸水夫頭、


"4. 讃岐


o佐柳高次 1835-1891 人名政の塩飽佐柳島出身水夫、咸臨丸渡米、ワイルウエフ号遭難生還、いろは丸衝突時当番士官、長崎奉行所占拠、函館戦争,帰島して世話役や船頭頭、


"5. 紀伊
          


o陸奥宗光 1844-1897 紀州藩士。神戸海軍操練所、天満屋事件、スト−ンウオ−ル号引き取り、維新後、知事・県令等歴任。西南戦争で禁固5年、明治16年出獄、欧州留学、その後、外務大臣として、条約改正・日清戦争講和・三国干渉などにつきすぐれた手腕を発揮した。伯爵


"6. 下関
         


o伊藤助太夫 1830-1872 下関の商人。海援隊の活動を支える。お龍を預かる


"7. 長崎
          


o小曽根英四郎 1840-1890 長崎の商人でもあり、海援隊の活動を支える。いろは丸会計官、豪商小曽根乾堂の弟。お龍をあずかる。



 o大浦慶 1828-1884 長崎の商人で日本茶輸出貿易の先駆者。海援隊の活動を支える。

         
  2018-9-7






     龍馬の船


 坂本龍馬が亀山社中・海援隊において所有・運航した船と他藩の船でも乗船した船をとりあげます。

  龍馬関連年表(旧暦)

文久2年・1863
     12/21 千葉重太郎、小笠原長行らと「順動丸」で兵庫着
     12/29  勝海舟と会う
文久4年・1864
      1/8  勝海舟と「翔鶴丸」で大阪着
     2/16  勝と「翔鶴丸」で佐賀関に入港、陸路長崎にむかう 
元治元年・1864
      2/23 龍馬は近藤長次郎、望月亀弥太、千屋寅之助、高松太郎らと長崎を初めて訪れる。
      4/4 神戸海軍操練所建設のため勝海舟と共に陸路兵庫にむけ出立。
    5月某日 京都でお龍に出会う。
      6/5 池田屋事件。望月亀弥太死亡
      6/7 「黒龍丸」に大阪で乗船
      6/17 「黒龍丸」で下田入港
      6/20 「翔鶴丸」で勝と大阪着
      7/19 禁門の変 
      7/23 第1次長州征討
      8/1  お龍と内祝言
      8/5 4国艦隊下関砲撃開始
     8月某日 勝の使者として西郷と面会
      11/10 勝海舟、軍艦奉行罷免される
    12月某日 薩摩は龍馬らを「船の手先」として雇い入れる
      12/16 高杉晋作の功山寺挙兵 
慶応元年・1865 
      3/12 神戸海軍操練所廃止
    4月某日 中岡慎太郎と薩長和解を策す
      4/12 幕府、第2次征長令を発す 
      4/22 西郷、小松帯刀に同行して「胡蝶丸」薩摩へ
      4/29 「胡蝶丸」 長崎寄港
      5/1  「胡蝶丸」鹿児島着
      5/16 長州への薩摩出兵拒否を伝えに行く、薩長同盟模索
     閏5/6 下関で薩長連合の件で桂小五郎と会見
     閏5/21 中岡慎太郎下関到着、西郷は下関に来ず、桂は憤激す。
     閏5/29 中岡と西郷説得のため京都へ
     6/29  西郷と会見、薩摩名義での軍艦・銃購入を許される
    7月頃  「亀山社中」設立 
     8/26  近藤長次郎の周旋によりグラバ−から銃を購入長州へ引き渡す
     9/26  兵庫で「胡蝶丸」乗船
     9/28  伊予青島寄港
     9/29  上関上陸
     10/7  下関の白石正一郎を訪問
     10/18 グラバ−から「ユニオン号」購入、「桜島丸」に改名
     11/24 長崎に向け大阪出発、 上関寄港 (11/26)
     12/3  下関着   
     12/14 長州と桜島条約を締結
慶応2年・1866
     1/1  長府藩士三吉慎蔵と出会う
     1/10  三吉と共に下関から兵庫に向かう 
     1/14  近藤長次郎自刃
     1/21  薩長同盟締結
     1/23  寺田屋事件で負傷
     2/5  薩長同盟の朱筆で裏書
     3/5  薩摩藩船「三邦丸」にお龍と乗船して薩摩へ
     3/8  長崎に寄港して近藤長次郎の墓参をする
     3/10 鹿児島到着
     4/12 亀山社中は「ワイルウエフ号」を薩摩の援助により購入
     5/1 桜島丸にえい航されてワイルウエフ号は長崎より鹿児島に出港
     5/2 ワイルウエフ号が座礁沈没
     5/28 勝海舟が軍艦奉行に再任
     6/1 お龍と「桜島丸」に乗船
    6月某日 「ワイルウエフ号」遭難地を訪れて弔い金を地元に渡す
     6/4 「桜島丸」が長崎到着、お龍を小曾根英四郎に預ける
     6/7 第2次長州征討
     6/14 下関到着、桂より小倉口参戦を依頼される。
     6/17 「桜島丸」(乙丑丸・ユニオン号)と長州軍船4隻で小倉渡海参戦
     6/20 高杉晋作と白石正一郎宅で面会
     7/20 徳川家茂が大阪で死去
     10/3 亀山社中、薩摩より月給として一人当たり3両2分を受け取る
     10/28 プロシア商人・チェルシ−から「太極丸」を購入
     12/4  小曾根英四郎宅に滞在
     12/5 慶喜15代将軍に就く
     12/7 山口で木戸準一郎に溝淵広之丞を紹介
     12/14 溝淵広之丞と共に下関到着
慶応3年・1867
     1/4 下関で伊藤助太夫宅に滞在  
     1/9 下関出港 長崎へ 船名不明
     1/11 長崎着
     1/12 長崎で後藤象二郎と会見、脱藩許される、
     2/10 龍馬とお龍が長崎より下関の伊藤助太夫宅に行く
     3/18 龍馬が御手洗で薩長芸土4藩の予備会談
     3/21 龍馬、新谷道太郎に会い下関に向かう
     3/22 下関着、三吉愼蔵に「大日本史」借用を願い出る
     4/8 伊予大洲藩蒸気船「いろは丸」 長崎到着
     4/14 高杉晋作死去
    4月上旬 「亀山社中」を改編して土佐藩付属の「海援隊」になる
     4/19 土佐商会に対して海援隊院へ一人当たり5両の月給を要求
         「いろは丸」長崎出港
     4/23 「いろは丸」紀州藩船「明光丸」と衝突沈没
     4/25 鞆の浦で「いろは丸」談判
     4/30 御手洗で鳥取藩士・川田佐久間と面会
     5/15 長崎で紀州藩と賠償交渉開始
     5/29 紀州藩より8万3000両の賠償金で決着    
     6/9 土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎やお龍と乗船、「船中八策」を作成
     6/11 兵庫入港
     6/22 「薩土盟約」締結、 龍馬と中岡陪席
     7/4  後藤象二郎が藩主に大政奉還を伝えるため土佐に向かうのを見送る
     7/6 長崎で「イカルス号」水夫殺害で海援隊に建議かかる
     8/1 薩摩船『三邦丸』(みくにまる)で大阪出港
     8/2 須崎で土佐藩船「夕顔丸」に乗り換える。
     8/12 「夕顔丸」長崎にむけ出港
     8/14  下関寄港
     8/15  長崎入港
     9/7  薩土盟約を解消
     9/10 イカルス号事件無実となる
     9/18 海援隊が芸州藩船「震天丸」長崎出港、土佐へ銃1000丁を渡す。
     9/20 下関で三吉慎蔵にお龍を預ける。
     9/22 「震天丸」で下関出港、お龍との最後になる。土佐へ向かう
     9/29  脱藩以来の初めての帰郷で最後ともなる
     10/5  土佐藩船「空蝉」で大阪に向けて土佐出港
     10/14  大政奉還が受理、討幕の密勅が発せられる
     11/1  福井で松平春嶽に会う、
     11/5  「新政府綱領八策」を草案
     11/7  御手洗で薩長芸土密約に龍馬立ち会う
     11/8  龍馬は御手洗を立つ
     11/15 近江屋で襲撃され龍馬死亡
     12/7  陸奥陽之助ら海援隊による天満屋事件起こる
     12/9  王政復古の大号令



 五島列島・中通島上五島町の有川にヨットで一週間ほど停泊しました。 フェリ−タ−ミナルのロビ−展示で大きな龍馬像がある。それを目にした時には、なぜ、ここに龍馬の像があるのか不思議であった。 あとで知ったのですが、亀山社中の船「ワイルウエフ号」が潮合岬(しおや)にて座礁沈没して社中の者が遭難死亡した。

 これには発見談があり司馬遼太郎「龍馬がいく」にこの遭難話が書かれており、興味を持った人が昭和43年の時代になり、探し求めて、ついに遭難者の墓を発見した。地元の人にも忘れられており、当時の俗謡を覚えている唯一の老人にもめぐりあったという。

「そど(騒動)よ、そど、 そど、 潮谷そどや、
 五月二日の明け六つに 異国の船とは知らねども
 どことも知れぬ、島見せぬ 島もだんだん見えるして
 かねの錨をつけこんで つけども錨がきかずして
 石に当たりて水船に 流れて行くのがどこなれば
 上口さしてぞ流れ行く 江ノ浜前にぞ 流れつく
 どなたも錦の対の衣装 こりゃ何事じゃと 村中が
 浜に騒ぎて大騒ぎ 国はいづことたずぬれば
 国は薩摩の鹿児島で 積荷は何ぞとたずぬれば
 大砲(おおづつ) 小砲(こづつ)つみまぜて
 かなきんなどを さしにして
 さぞやお世話じゃ 浦田さん」

  浦田さんは浦田運次郎は塩飽列島の佐柳島出身で咸臨丸渡米にも参加している船頭頭であった。

山下禎三郎 ワイルウエフ号遭難顛末記
 http://wkmseton.d.dooo.jp/seoto/sot15.html


 有川より世界遺産になる頭が島教会に行きました。定期バスで訪れたのですが、龍馬像をバスから写真を撮りました。 しかしその地の江の浜には降りることはなかった。今考えれば惜しいことをしたものです、なにせ1日3便しかないバス便であったので。初めはその地を観光便乗商法宣伝と思っていたのは浅慮でした。



 潮合岬に立つ合掌した龍馬像
 



    龍馬乗船の船





1. 「ワイル・エフ号」 スク−ナ−159t プロシア建造 グラバ−から購入

 亀山社中の木造練習船であったワイル・ウエフ号が、長州から米を積んだ桜島丸(ユニオン号・近藤長次郎のあっせんによりグラバ-から購入)にえい航されて鹿児島に向かう途中、上五島中通島潮合埼沖で遭難した。社中の池内蔵田・黒木小太郎ら12人は死亡した。




2. 「順動丸」 77m 405t 360馬力 外輪船  英国建造



3. 「翔鶴丸」 350t  外輪船  アメリカ建造 幕府船 画像なし




4. 「胡蝶丸」 薩摩から土佐藩船  外輪船  150馬力  旧フ−キン

5. 「黒龍丸」  越前藩が購入して幕府船に  画像なし





6. 「ユニオン号」 45m 300t、長州藩船  英国ロッテル−ヒ建造 1865年薩摩名義で長州購入 、薩摩名義「桜島丸」 長州名「乙丑丸」(いっちゅうまる)
 6月17日 (旧暦) の小倉藩への渡海作戦に、坂本龍馬が指揮官、菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長となって実戦に加わった、大島口の戦いにも参加。





7. 「夕顔丸」 65m 蒸気船 659t  土佐藩船 船中八策を起草
1963年に英国で建造、Shooeyleen号 英国商人オルチから購入




 長崎にある 夕顔丸碑





8. 「いろは丸」 160t 大洲藩 1866年英国バ−ミンガム建造アビソ号




9. 「大極丸」  商人鳴海屋与三郎が買主、小曽根英四郎が保証人となって、プロセイン商人チョルチーより購入した洋帆船 遭難したワイルウエフ号と同規模の船。




10. 「震天丸」 芸州藩船  薩摩より10万両借りて英国より購入、 薩芸同盟により長州と芸州の兵を御手洗から大阪に送る


11.「空蝉」 土佐藩船 146t 150馬力 蒸気船 建造場所不明 国産かも  画像なし




12.「三邦方丸」(みくにまる)  英国リクエブ−ルで製造、53m 410t 8万ドル購入、 西郷の遠島と帰還に利用された


   2018-8-21






     長崎の龍馬支援者たち


 お金もない浪人風情の龍馬が船を用立てて海援隊を立ち上げることができたのは、長崎の豪商小曾根家と大浦慶の援助があったからこそです。
 
 小曾根家は祖父の代には貧しかったが六左衛門の時に越前藩や佐賀藩の御用商人となり、長崎屈指の豪商となった。小曾根乾堂は長男として生まれる。乾堂は、詩作そして書・画・篆刻、はては音楽・陶芸と、多彩にして多芸なジレッタントであった。松平春嶽や勝海舟と深い関係があったことから坂本龍馬を支援することになる。龍馬は西郷隆盛の援助を受けて海援隊を設立したが、その本部は小曾根家に置かれた。




小曾根乾堂  1828-1885

 4男小曾根英史郎はいろは丸の会計係として乗船した。3男の正雄は剣の達人で京都奉行に出仕して鳥羽伏見の戦いで戦死した。幕府にも義理立てがしてあった、とはいえ龍馬の借金600両を返済したり、龍馬の妻お龍を8か月ほど小曾根家で面倒をみている。




小曾根英四郎  店舗11年・1840-1890・明治23年  51歳

 英史郎は勝海舟と海軍伝習所で同窓であった。いろは丸の衝突の際に乗船していて紀州藩との交渉の便宜をはかった。龍馬暗殺のあとには岩崎弥太郎が重用されて海援隊の実権が移っていった。薩長閥の政治にも愛想をつかして遊郭に浸って酒浸りの晩年をすごす。




 美人の豪商 大浦慶  文政11年・1829-1884・明治17年

 長崎の油商人の娘として生まれる。大火で損害を受けてたが、日本茶貿易を先駆けて企て成功した。困窮する龍馬たちのような脱藩浪士に、パトロンとして金銭的な支援をして何かと面倒をみた。 開国となり、他港が発展していくと長崎は衰退していく。元勲たちは、もう過去のことと、彼女に振り向きもしなかった。浅はかだったと彼女は後悔したという。

 明治になり、たばこ貿易詐欺の被害者になり、3000両もの負債を死ぬまでに完済した。死ぬ間際に茶輸出の功績を認められて功労金20円を賜る。

    2018-2-18






    小曾根乾堂・英四郎を訪ねて


 小曾根乾堂宅跡と弟の小曾根英四郎墓を訪ねました。長崎出島ワ−フのヨットハーバーに停泊していたので、そこから徒歩10分位です。市電大波止ないし賑橋停留場より徒歩5分ほどにある。建物は残っていなくて法務局の一角に石碑が残っているのみです。 





 そこには、なぜか龍馬の連れ合いのお龍さんの月琴の像がありました。 お龍さんは8か月小曾根邸に滞在した。その時に長女「きく」さんから月琴を習ったそうですが、短い期間であったので名手になったわけではないと思いますけれども。



 お龍さんと月琴の像、 乾堂の長女キクが教えたという



 高知県芸西村教育委員会主催のイベントで月琴を奏でて、「面白き女と妙な男の夫婦物語」がおこなわれた。



月琴での龍馬の手紙 高知県芸西村





小曾根乾堂 1828-1885


 小曾根乾堂はレオナルドダヴィンチタイプの万能文化人で絵画、書画、篆刻(御璽・国璽)、陶芸(亀山焼)、音楽(月琴)、など業績を残している。 彼の墓地は晧台寺にある小曾根家墓地ではなく太平寺の墓地にあるという、今回は訪ねておりません。

 彼は次の言葉を残したといいます。冷静に維新を眺めて政府の高官になることは無かった。

「冷眼視世(れいがんしせ)」”冷めたまなこで世の中をみよ”

 

小曾根英四郎 1840-1890

 勝海舟と弟の英四郎は海軍伝習所で同窓であった。元治元年・1864に龍馬と勝の紹介で会っている。英四郎は海援隊に入る。いろは丸の衝突事故の際には乗船していて紀州藩との交渉に活躍したといいます。龍馬が死んでからは世界の海援隊は夢と消え、明治になってから幕府が薩長土肥に代わっただけです。彼は不満を持って生活していて、酒色に溺れたといいます。妻は実家に帰り、孤独な晩年を過ごした。

 彼のお墓を見て来ました。 有名な眼鏡橋から山の報に登ったところに晧台寺(こうたいじ)があり、そこに墓地の所在の案内板があり英四郎の墓に行くことができる。小曽根家の墓地内に近藤長次郎の墓もある。



晧台寺  




 小曾根英四郎墓  



 近藤長次郎墓 右隣は小曾根英四郎墓

 近藤の墓は別にあったが良き保存のためにここへ移築された。墓碑名は龍馬の字だという。




 幕末長崎関連地図



  2018-8-19







  大浦慶を訪ねて
 



  国指定重要文化財 本堂厨子


 長崎の大浦慶のゆかりの地を訪ねました。 市電に乗り正覚寺下終点で降ります。京都にある清水寺の僧・慶順により元和9年・1623に創建された清水寺に向かう。掃除をしていた住職さんに大浦慶のお墓の場所を訪ねた。この裏にあるとのことだが、いったん階段を下りて接している道に至る。左に山手の方向に2−3分歩くと案内の看板があった。長崎お決まりの坂道を5−6分行く、左へいく案内板があり4−5分登るとお墓がありました。

 新鮮なお花がそえられていて、長崎の人に今でも見守られているようです。




 大浦慶墓地 案内板




 大浦慶墓

 市電の1日乗車券は500円で安くて便利。正覚寺下より次の駅は演歌の題名になっている「思案橋」です。そこで降りて2−3分のところに大浦慶の居宅跡があります。昔と同じ町名・油屋町にあります。 そこはリフォ−ムしているのか新築工事なのかわかりませんが、足場を組みテントで覆われた片隅に石碑はありました。



 大浦慶居宅跡

 龍馬がそこへ行ったとか行かないのか、「思案橋」の由来は丸山にあった遊郭への思案のしどころからきた名前なのでしょか? 油屋町の市電を挟んで反対側が丸山町・寄合町になります。現在はどうなっているのでしょう? 見ていませんので報告できず。


    2018-7-22






       伊藤助太夫・九三  1830-1872



   中央は龍馬、右は伊藤助太夫、左は伊藤家使用人

 坂本龍馬は脱藩後に白石正一郎邸を目指したといわれている。ここで白石のことはとりあげています。下関にはもう一人の豪商の龍馬支援者がいました。 龍馬が書いた手紙で現存している数では、乙女姉さんへの手紙が多いその次は伊藤助太夫である。 

 不覚にも小生は彼についての知識が欠けていて、下関にある白石ゆかりの地は訪ねた、赤間神社・阿弥陀寺へも行ったが、すぐ近くというより彼の広大な邸宅の中にその神社があるほどであるのに、伊藤関連の地へは行っていません。

 彼は長府藩赤間関の大年寄である。本陣伊藤家の当主で、下関を代表する豪商です。龍馬とは慶応元年・1865にあって以来交友が深かった。彼が長府藩のお歴々と龍馬を繋げたという。九三への改名はその名は古臭いと龍馬がすすめたものである。

  慶応3年・1867竜馬はお龍をつれて長崎より下関に来る。伊藤家の一室「自然堂」を借りて夫婦の部屋とした。妻のお龍さんはここで龍馬の死を三吉慎蔵から受けとった。
 慶応3年・1867 9月20日、龍馬は久しぶりに伊藤家に泊まった。後年伊藤の妻がその時のことを語った。
 「坂本さんは、普段は汚い風をしておって、顔つきも恐ろしい人だが、この間は顔もきれいに肥え、大変立派になっていらした。きっと死に花が咲いたのでしょう。間もなく(2か月弱)亡くなられた」




  伊藤助太夫宅跡碑


   2018-8-11









  溝渕広之允



1824 or 1828-1909




 左から2番目が溝渕でその隣が龍馬



 溝渕広之允は海援隊士と共に写っている写真を見て、隊員でないのが不思議であった。

彼は龍馬と共に江戸に行き、それよりも彼が龍馬を江戸へ引導したとも言われている。 龍馬と同じように佐久間象山と千葉道場で学ぶ。1866・慶応2年に藩命で長崎に行き砲術を学び龍馬と再会する。 それまで余り彼は龍馬の中で登場してきていない、彼は下士の出であったが長崎で龍馬と会うまで、藩士として行動してきた故からかもしれない。 彼はその地で後藤象二郎を介して龍馬の土佐藩復帰を援助した。 そのせいで亀山社中が海援隊になる。海援隊は土佐藩に属するようになった。
 
 龍馬の紹介で桂小五郎と会い交流を深める。 藩の許可を得たかどうか不明ながら第2次長州征討で小倉口の戦いで龍馬と共に参戦して、合作で下関戦図を書いている。これは他に龍馬が手紙に書いた海戦図も存在する。 このことから、幕府との討幕戦いにも土佐藩兵として従軍したと思われるが、その詳細は不明である。

 これまでの経歴により新政府の要職にも就けたであろう、維新後の明治2年10月に隠居すると、その後は新政府に仕えることはありませんでした。








 彼の資料は先の大戦で焼けてしまい、早く引退したことも加わって、我々庶民には知られることも少なかった。


   2018-9-28









菅野覚兵衛・千屋寅之助
 




1842-1893

 司馬遼太郎「竜馬がゆく」を100回余を愛読したという武田鉄矢さんは、菅野覚兵衛が留学から帰国して一般水兵として海軍に入ったと話していました。 奇妙に思えたので、調べてみても、そのことは分からず。入隊後に、2年ほどで少佐になる。そのことは修正されて相応な待遇になり、不思議なことではありません。
 菅野覚兵衛は第2次長州征討時に、高杉晋作と伴にユニオン号艦長として小倉攻撃に参戦している維新の功有る海援隊士です。

 龍馬の妻お龍の妹・君江と結婚する。お龍は出刃包丁を持つて、騙されて遊郭に行きそうになった妹2人を救出した妹のひとりが君江です。 土佐人であり神戸海軍操練所で学び亀山社中を龍馬と作った菅野であるから海援隊の主力の人材となります。



お龍と君江像

 西南戦争での弾薬庫襲撃事件で、彼は弾薬を水没させて使用できなくする処置をしていますので、その責を負うことはないと思いますが、政府には不興をかったようです。

 龍馬が持っていた北海道開発の夢をついて福島の原野の開拓をする。 52歳で往生を遂げた。


  年表
1842 天保13 10/21  土佐藩の庄屋・千屋民五郎の3男として誕生
             土佐勤皇党に入る
1862 文久2 山内容堂を警護で上京
1864     龍馬とともに神戸操練所に参加
1865     龍馬や陸奥峰光と共に亀山社中に結成参加
1866     四境戦争で龍馬と共に社中の船ユニオン号艦長として参戦
1868 慶応4 お龍の妹・起美と結婚、 戊辰戦争で奥州に参戦
1869 明治2 いろは丸賠償分配金を持ち、海援隊士の白峰駿馬と共に米国ラドガ−ス大学に留学
1877 明治7 帰国して海軍省に入る
       西南戦争直前に鹿児島の造船所次長に赴任して、弾薬強奪事件を処理する
1884 明治17 海軍省辞職、 福島県郡山氏安積原野開拓に従事
1893 明治26 52歳で死去 



 菅野覚兵衛夫妻

2019-3-8






   龍馬の蝦夷地視察
 


 神戸海軍操練所

 坂本龍馬は蝦夷地に並々ならぬ関心を持っていました。妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。

 神戸海軍塾の同志4人を蝦夷地視察に送り出している。


安岡斧太郎・金馬
1839-1864 土佐勤皇党 天誅組挙兵で処刑  

小松小太郎
1844-1863 蝦夷地に渡る船中で発病し函館で病死

能勢成章・達太郎
1842-64 禁門の変で自刃

北添桔磨・きたぞえきつま・本山七朗
1835-64 高知高岡郡岩目地村の庄屋の5男、16歳で庄屋色を継ぎ、19歳で大庄屋となる。文久3・1863 本山七郎を名乗り江戸にでる。 池田屋事件で自刃
映画「蒲田行進曲」の階段落ちの彼を描いたシ−ンが有名であるがこれは創作である。

 龍馬のこの視察は、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画だった。
龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(あるいは200人程)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている]。

 池田屋事件と禁門の変で操練所の仲間が加わったことにより操練所が閉鎖になり混乱したことにより蝦夷地の件は実行されなかった。暗殺されてしまいましたが、龍馬の祖尾後の活躍で維新の功業がなったわけで、蝦夷地移住が行われていれば、日本の歴史も違ったものになっていたでしょう。



北海道坂本龍馬記念館

 明治になり親族が北海道に移住している。海援隊同士の菅野覚兵衛も夢を引き継ぎ福島の原野開発に投じている。


   2019-3-17






    坂本龍馬と近江商人  武田鉄也氏による
                
 


 龍馬家紋



 元坂本家の家紋



 明智光秀、加藤清正、太田道灌らの家紋



 坂本龍馬の家紋「桔梗の紋所」ル−ツは近江で明智光秀という。以前の姓は大浜のときの紋は丸に田であったというから明智とは関係がないのでしょう。大浜氏が才谷屋という稼業で成功して郷士の坂本家から株を買ったときに家紋を変えて郷士になった。龍馬の先祖は坂本家ではない。しかし近江から流れて来たのでしょう。

 没落した武士は造り酒屋や醸造業・商家に子孫が転進しているのは良くあることだ。 龍馬の家は近江商人に続がりのある家と思われる。 それゆえに、龍馬を「そっと見つめる人」が土佐にはいた。

 近江商人は金融ネットワ−ク、流通ネット 廻船問屋に取り組んでいる集団です。龍馬が船を使った交易に携わるよう行動しているのは不思議なことではない。継母の伊與が三度結婚していて2度目の家が廻船問屋の川島家であったので影響・支援があったかもしれません。

 金銭的には裕福であったが土佐の郷士の脱藩浪人にすぎない龍馬が福井藩主に謁見できたり、幕府要人・勝海舟への松平春嶽の紹介状を得られることは普通ではありえません。何らかの近江商人のネットワ−ク支援があったと思われます。

 「龍馬が行く」を百回も読破した武田鉄矢氏が、新しい視点・近江商人ネットワ−クを述べられています。 YouTubeで彼のTBSラジオ番組がおもしろい。「今朝の3枚におろし」という番組で彼の読んだ本を紹介しています。 最近にこれを知るまで「単なる少しエッチな芸能人」であると誤解をしておりました。講談のような上手い語り口は知られていましたが、本物の読書家インテリ芸能人であったと今では思います。


 武田鉄也・司馬遼太郎「竜馬が行く」 TBSラジオ
 https://www.youtube.com/watch?v=eVE8q1BNVso 89分


   2019-3-2