幕末開国 まとめ
林復斎
1801-1859
学校で習った歴史は老人になるまで余ほどのことが無い限りそのままのであることが多い。 ペリ−来航についても、学校で記憶した「上喜撰(蒸気船)たった4杯で夜も眠れず」という狂歌があり、幕府は云われているように周章狼狽して、米国の砲艦外交に負け、不平等条約を結ばされたという印象です。
老中や薩摩には、1年ほど前に、ペリ−来航の目的や軍艦名とその装備などをオランダから通報があり、具体的に幕府はそれを知ることになりました。それで幕府は驚くこと無く冷静に対応できた。ペリ−との交渉では林復斎が当たり彼はすでに諸外国の事情や交渉史を知っており、10年前に定めた(1842年・天保13年)薪水給与令の内容にとどめ、通商要求には拒絶した。
1854年3/31・嘉英7年3/3 日米和親条約が締結された。
ペリ−側の資料と新政府側の見解に左右された歴史ゆえに、余り幕府側の資料は重視されてこなかった。 林復斎は論理的に交渉して弁論でペリ−の言うままにはさせなかったようです。彼の残した『墨夷応接録』の現代語訳は無い。それが読めればもっと詳しく分かると思います。彼はもっと評価されて良い人である。
1858年7/29・安政5年6/19に日米修好通商条約の締結により通商を行うようになった。ハリスとの交渉により不平等条約が結ばれた。彼の甥・岩瀬忠震と井上清直がこの交渉に当たった。
略歴
1801年林述斎の6男として誕生
1807年 第2林家・林琴山の養子
1824年 紅葉山文庫の書物奉行
1834年 2の丸留守居、西丸留守居など歴任、
1853年 本家大学頭家を継ぐ、54歳で林家11代当主。
1854年 ペリ−との交渉に当たる。
3月31日 日米和親条約締結
1859年 60歳死去
2018-5-9
幕末の国際情勢とペリ−来航
James Biddle 1846年 浦賀来航
ペリ−は日本への遠征航海の途中にマックファ−レンの日本報国を暗記するほど丹念に読んだという。単に土人の国へ開国の脅しに来たわけではない。この時期に、欧米では日本に関する研究書が広く読まれていた。マクファ−レンは日本に来たことはないけれど、長崎出島にいたオランダ人から話を聞き、資料を集め、驚くほど詳しい正確な報告書を書く。
ペリ−来航の目的は捕鯨船の補給のためではない。それは名目だけであり、条約が成った後で捕鯨船が来航したことはないといいます。
ここで「大圏航路と日本海国」でも述べているように、真の開国の目的は当時貿易相手国として最も富を生み続けていた清国の市場をめぐるイギリスとの通商戦争において、先回りして貿易ル−ト確保することだった。
下記年表でわかるように、ペリ−来航の前後にはアジアへの野望をもつ列強の英国とロシアはクリミア戦争で衝突している。その間隙をぬうようにペリ−の来航である。
英国の力を借りてロシアの対馬占領を押し返し、南北戦争や普仏戦争で米国やフランスの力がもがれたところ維新が起きたといえよう。 ドイツヤイタリアは統一が成るころで日本への影響は明治になってからである。
1804 ナポレオンがフランス皇帝になる
1806 ナポレオンが弟ルイ・ボナパルトがオランダ国王に任命
1808 フェ−トン号事件
1811 ゴロ−ニン事件
1812 ナポレオンのロシア遠征
1825 外国船打ち払い令
1830 仏7月革命
1837 モリソン号事件
1840-42 アヘン戦争 南京条約
1841-43 天保の改革
1845 米国と清は望厦条約締結
1846 米国ジェ−ムズ・ビドル浦賀来航、開国失敗
1846-48 米墨戦争 米国カリフォルニア獲得
1848 カリフォルニアで金鉱発見
1851-64 太平天国の乱
1852
1853-56 クリミア戦争
1853 ペリ−浦賀来航、プチャ−チン長崎来航
1854 日米和親条約締結
1855 タイと英ボ−リング条約締結
1856 クリミア戦争講和のためのパリ条約
ハリス着任
1856-60 第2次アヘン戦争・アロ−戦争、
1858 天津条約、 井伊大老就任 安政の大獄
日米修好通商条約
ムガ−ル帝国滅亡
1857-58 セポイの反乱 インド併合
ロシア アイグン条約
1859 ムラヴィヨフが来航
1860 井伊大老暗殺、 北京条約、 イタリア王国成立
ロシアが清より沿海州獲得
1861 ロシアの対馬占領
1862 千歳丸上海到着、五代友厚や高杉晋作が乗船, ビスマルクがプロイセン 宰相になる
1863,1864 下関戦争
1863 ポ−ランド蜂起
1864 太平天国の乱
1861-65 南北戦争
1863 薩英戦争
1866 第2次長州征討
1867 大政奉還
オ−ストリア・ハンガリ−帝国成立
1868 明治維新
エチオピアは英に敗北
1870 普仏戦争
1871 ドイツ帝国成立、 普仏戦争講和
1875 千島樺太交換条約
1877 西南戦争
2018-12-21
大圏航路と日本開国
大圏航路と言っても誰もわかる人はいないと思われます。まして外航船員が絶滅した今となってはなおさらです。
商船も経済上の理由で最短距離を航海してコストを下げることが求められます。 宇宙飛行士が地球が丸かった、と述べるまでもなく、地球は球体です。そこでの2点間の最短距離はスイカを斬ったように結ぶ必要があります。直線ではなく曲線になります。 船はそれに合わせて毎度変針しながら航行するのは難しいので地点地点を直線で結びそこで変針して疑似曲線を航海することになります。
1848 カリフォルニアで金鉱発見、カリフォルニア購入
1853 ペリ−浦賀に来航 翌年に日米和親条約締結
ペリ−航海図
学校で学んだ米国からの開国要求は捕鯨船の寄港・補給と海難救助だったと記憶しています。八幡和郎さんの日本人の知らない日米関係の正体によれば、当時の米国の中国貿易は、米国東海岸から日用品を南米南端のホ−ン岬を経て西海岸に運び、金やラッコの毛皮を積みフィリッピンを経由して中国で茶と陶磁器の交易をしていました。帰りは大圏航路をとり西海岸に至るのが自然条件を考えるとベストの選択でした。その途中に日本があったのが開国を求められるひとつの理由でした。
地球的自然条件とは
下記のウインドマップをご覧ください。北東の貿易風が吹いており西海岸・メキシコからフィリッピンに向かうのは帆船では追手になり容易だとわかります。
ウインドマップ
https://earth.nullschool.net/jp/#current/wind/surface/level/orthographic=-213.13,-5.27,642
また、大圏航路を通って日本を経由して北東に針路をとり北太平洋を航海して西海岸に至ることも同様です。
2016-5-31
参考
ヨットの大圏航路
太平洋をヨットで横断したことはないので、体験的なことは書けませんが、本船では経験していますので参考までに書いてみます。
ヨットでは、この大圏航路を利用するのは、太平洋と大西洋で東へ向かう航路をとるときでしょう。西航する場合はトレ−ドウインドの利用になるので、そちらが優先されて使うことは少ないです。
本船でも自然条件に左右されることがあります。 それは、太平洋で冬のベーリング海の荒天を避けるために、アリュ−シャン列島の北を航海するかしないかで、純然たる大圏航路をとらないことがあります。実際の航路は30年前でも気象会社から航路の指示・オーシャンル−トがあって、船長判断ですが、それを航海していました。
ヨットで冬にこの航路をとることは無謀で航海する人はいないでしょう。それより夏のこの地での霧の影響でしょう。GPSが発達した今では大分に航海が容易になったと思いますが、レ−ダ−がほしいところです。
計算により航路を求められますが、北太平洋大圏航法図により例えば軽度10度ごとの地点をチャ−トから求めてそこを変針位置として求め利用している海図に移し替えて記入して変針針路を求めて航海していきます。
計算による例
野島崎34.54N,139.55Eからサンフランシスコ港外37.48N,122.40W
経度差10度で変針点とする。 大圏距離は4468マイル、頂点緯度48.10N,168.43W
変針路(四捨五入)
出発地 34.54N,139.55E N55E
変針点1 35.41N,141.17E N58E
2 40.34N,151.17E N65E
3 44.03N,161.17E N72E
4 46.24N,171.17E N79E
5. 47.44N,178.43W N86E
6. 48.10N,168.43W S86E 頂点
7 47.44N,158.43W S79E
8 46.24N,148,43W S72E
9 44.03N,138.43W S65E
10 40.34N,128.43W S60E
到着地 37.48N,122.40W
ヨットは風によりジグザグにしか進めないので、変針点はあくまで目標です。 西航するときのように
緯度線に沿って進む航路もありです。 ウインドマップ等により大圏航路を頭に描きながらの航路になります。 ヨットでは。
2016-6-3