倉敷散歩
下津井
令和1年12/16より宇高連絡船フェリ−航路がいよいよ長い歴史を閉じて廃止になる。瀬戸大橋の開通より今まで航路が維持されていたのも不思議ではある。ジュジュ繋ぎのように切れ目なく運行されていたこの航路は長い歴史を閉じることになる。
下津井の町はかっては茶屋駅より下津井まで下津井電鉄が走っていた。下津井電鉄は茶屋駅から坂出までJR瀬戸大橋線の開業に伴い1991年に廃止される。その用地は現在は遊歩道として残る。狭軌の軽便鉄道として、かわいい電車が走っていた。
下津井地図
下津井電鉄 廃線跡
元廻船問屋の建物や古い町並みが見られる。タコが有名らしくランチにタコめしを食した。コ−スだと6000円もするので手が出ない。その店主より、たこが不漁だと2か月余りも店を閉じることがある聞いた。
高台に上がると瀬戸大橋を含めた海の景色が絶景である。 遊園地には勢いが見られない。どこもかしこもある昔の遊園地の感じです。
廻船問屋跡
下津井旧市街 1
下津井旧市街 2
祇園神社
漁港には漁船がびっしりで、ゲストでヨットが訪れるには良いスペ−スがないようだ。
2019-12-9
下津井城
JR児島駅からバスに乗り下津井に行く。 瀬戸大橋が出来た時にその予算で瀬戸大橋架橋記念公園ができる。公園内というか隣接して下津井城跡がある。
そこは眼下に下津井瀬戸をのぞみ、その瀬戸は10ノットの急流速になるという。近くの島塩飽海賊の根拠地・本島もあり、瀬戸内の海上交通の要衛である。 ここは宇喜多秀家が築城した、関ケ原後に岡山・池田藩の支城として現在のように改修された。 一国一城の令により廃城となる。 西の丸、二の丸、本丸、3の丸、中の丸、東の丸と配置され、天守があった。 石垣が残っていてその規模が知られる。
下津井地図 下は下津井瀬戸
下津井城図
三の丸
二の丸
天守跡
西の丸
中出丸
二の丸下南面の石垣
下津井は現在は瀬戸大橋の本州側の一端である。城跡からは橋や島々の景色が良い。
城跡から眼下を望む
2019-12-7
野崎家旧宅・児島
岡山県倉敷市児島にある野崎家旧宅・旧野崎家住宅を見てきました。 児島市がいつのまにか合併して倉敷市になっている。 児島は瀬戸大橋の本土側ですが、架橋熱のほとぼりも覚めたので、今では児島ボ−ト位しか認知されていませんのでしょうか? ここをさほど期待していなかったのですが、500円の入場料以上のものがあります。近くに行った方は是非ご覧になるのをオススメいたします。
児島半島(かっては名のとうり島であった)の南側を中心とした広大な塩田開発を野崎武佐衛門が行い塩田王となり大きな資産を築いた。瀬戸内の塩田はどこもそうだが、おもかげはない。ここ跡地を埋め立てて広大な敷地が生じたせいか、今は広々としたJR児島駅になったり、ス−パ−マ−ケットが量販店やたらと多く、さぞかし激戦区になっていることでしょう。
明治になり納税額の多さによ貴族院の議員に選ばれている。 その彼が3000坪に及ぶ敷地に長屋門や蔵、枯山水庭園、茶室、42mの奥行のある居宅などがみられます。 台所も、浴室、便所なども当時のままに残っております。 また調度品や豪華な漆器など貴重なものも見られます。
野崎武佐衛門 1789-1864
国指定重要文化財
豪華な調度品
庭 珍しい石がある
茶室
2019-7-7
玉島・倉敷
備中玉島港図
玉島は平成の大合併で水島や児島とともに倉敷と合併した。 市役所へ行くバスはどこでもよく整備されているのだが、それのない珍しい地区である。バスは新倉敷へ行くように路線がある。
倉敷は幕府の直轄地として発展し、玉島は備中松山城のある高梁藩の飛び地としてあった。そこは北前船の寄港地として、また藩の蔵米の積み出し湊として栄える。 幕末には河合継之助が山田方谷に学ぶためにここへ立ち寄った。新島襄は備中高松藩の分家であった安中藩に属した。この藩が購入した快風丸の函館寄航に貢献し函館より米国へ旅立った。
北前船航路
河合継之助の逗留した船宿跡
同志社大学より寄付された快風丸模型 西爽亭にて展示
歴史的街並み保存地区があり見どころもあるのであるが、案内板が整備されておらず残念である。 この街並みが残ったのは幕府老中筆頭板倉勝静を藩主としていたので朝敵玉島は燃やされる運命であった。部下150名と帰藩中の熊田恰(くまたあたか)が玉島で岡山藩に包囲され、藩の責任を一身に負うて西爽亭にて切腹した。玉島は救われた。
西爽亭 藩主御座所 熊田恰が切腹した血糊が残るという
大黒屋 1800頃の建物 廻船問屋として使用されていた
街並み その1
街並み その2
松山城下町(現高梁市)とつながる運河(高瀬通し)で松島港は周辺で栽培された綿花と北海道から来たその肥料のニシンカスや昆布で通商で繁栄した。
河口に残る水門
映画「ALL WAY 3丁目の夕日」の撮影ロケ地になった街並みがあるが、その往時に育った老人故にそれには興味が湧かない。
2020-7-11
倉敷・美観地区
大原美術館のある倉敷へは前々から行ってみたいところであった。 ヨットの上架船艇塗りで宿泊を必要としたことから、倉敷に宿をとった。 ちょうど第1次コロナの減衰期にあたり縛りが解けたので、ありがたいことに半額でホ
テルが利用できた。 上架作業を終えて夕方より美観地区を見学する。 ここ3年程に瀬戸内に在るいろいろに街並み保存地区を小生は見てきたつもりである。規模やその質はそれらに比べてこの美観地区が高いものであると思う。 今後もここを上回るものを探しても無いと思われる。
倉敷は天領であったので、米を倉敷川を利用して集積し、江戸に船で運んでいた。 また、玉島で述べたように、この地方は綿花の栽培地であったので維新後に倉敷紡績(クラボウ)が起業して発展した。 クラボウの社主・大原総一郎が街並み保存を思いつき現在のようになる基礎を築いた。大正の時代から保存に力を尽くしたので、これほどになったのでしょう。
欧米の美術館も最近では比較的容易に見られる状況になり、毎年のようにそこから借りてきた作品の美術展が開催されている。それで、大原美術館の見学は今回は時間的に限られたゆえに見送った。 また、年に1度は船艇塗りを行うゆえ別の機会に譲りたいと思う。
美観地区入り口
倉敷川左岸間所の街並み
大原美術館
名の知れない裏道り
アイビ−スクエア入り口
アイビ−スクエア
本町街並み
有隣荘 大原家旧別邸
国指定重要文化財 旧大原家住宅
中橋と倉敷考古館
倉敷川左岸の街並み
倉敷館
2020-7-18
由加神社と蓮台寺
ゆがさん・こんぴらさん両参りと聞かされても、今では地元の人以外には知られてない。江戸時代から明治にかけて、夢である金毘羅参りの途中にゆがさん(由加神社本宮)で災難・交通・旅行安全の参詣をしてこんぴらさんへ。十返舎一九も参詣したという。 ここは行基が開いた神仏習合の瑜伽大権権現であり、明治になり神仏分離令により由加神社と蓮台寺に分かれた。
蓮台寺の檀家であるNさんに連れられてここを参詣した。 バス便も有るが、細い曲がりくねった山道を車でいく。 昔は海沿いの田の口・琴浦に鳥居があった。この地で乗下船して参詣をした。 当時の参詣は山歩きになるので大変だったと思われる。
由加神社・蓮台寺、 児島、 宇野の位置
歌川広重 由加山
歌川広重 備前田の口鳥居
蓮台寺 日本3大権現のひとつ、厄除けの総本山といわれる
多宝塔 1670倒壊して1843再建
備前藩主池田候の祈願寺として栄えた。 客殿には襖絵が多くあり、丸山応挙が見られる。
客殿 群仙の間
客殿
客殿 庭
由加神社本宮 拝殿 全国に末社が52社ある
2020-7-24